国民融和政策
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テルミドール反動が始まると、末期国民公会は、1794年9月18日に聖職者民事基本法および関連法令を廃止し、宣誓拒否聖職者への弾圧も終わった。さらに12月2日にヴァンデ叛徒(カトリック王党派)に大赦令を出したのに続いて、翌1795年2月21日には信仰の自由(祭儀の自由)を宣言して、国内での宗教和解を進める政策に転換した。信仰の自由が認められたことで、ヴァンデの農民は王党派と切り離されて沈静化していった。しかし弾圧が終わった一方で、あらゆる宗教に公平不偏の立場を政府が取るようになったので、カトリックの地位は低下し、公的資金の提供も停止された。 総裁政府が発足すると、イタリア戦線では教皇との休戦が成立し、国内ではカトリック勢力の復権がやや進んで、亡命した聖職者の帰国も始まった。1797年2月19日には教皇との間にトレンチノ条約 (Treaty of Tolentino) が締結されアヴィニヨンが放棄されることで和平が成立した。4月4日の共和国5年の総選挙では、併合されたベルギーのカトリック勢力が多く議席を占めたが、これはフリュクティドール18日のクーデターにつながった。 1799年、ローマ共和国が成立した事件に関して、ピウス6世はフランスの捕虜となり、ヴァランスで死去したが、ブリュメールのクーデターで第一統領となったナポレオンはその正葬を許可し、新教皇ピウス7世と秘密交渉を開始した。これが1801年7月16日のコンコルダートとして成立するが、この中で教皇は統領政府を正式に承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意した。叙任権は教皇が持つが、その任免の際に聖職者のフランス国家への忠誠宣誓を必須とし、人選についても第一統領が指名大権を持った。教区の変更の線引きは教会と国家が協議して決めるということになった。聖職者の公定俸給は国が支払うことになり、聖職者はやはり実質的には公務員のようになった。カトリックは国教に限りなく近い「フランス人の最大多数の宗教」という立場になった。妥協の産物であったため、これらは聖職階位制を復活させ、教皇権至上主義のつけ込む隙を与える方向で、聖職者民事基本法を修正したような内容であった。 ともかく、フランスの教会がカトリック教会の組織として再構築されることになり、民事基本法から派生した混乱と、立憲派聖職者と宣誓拒否聖職者の分裂は終結した。一方で教皇と皇帝との関係は、ナポレオンの離婚問題と大陸封鎖令に関連して再びこじれた。1808年に皇帝は教皇領を占領して翌年に併合し、対してピウス7世はナポレオンを破門してフランスに幽閉された。その後も叙任を拒んだ教皇とナポレオンとの対立はさらに長く続き、ロシア遠征の後の1813年1月に再びコンコルダート(フォンテーヌブローのコンコルダート)が締結されるが、破棄され、皇帝が失脚してセント・ヘレナ島に追放されるまで個人的な和解は成立しなかった。 詳細は「ナポレオン・ボナパルト」を参照
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