国民解放委員会
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自由フランスと北アフリカの統合問題をめぐって両者の確執はなおも続いた。しかし3月頃までには北アフリカでもド・ゴール人気が高まった。ジローは3月14日にヴィシー政府の法令を無効とする演説を行い、ヴィシー政府からの訣別を明らかにした。翌3月15日、ジローはジョルジュ・カトルー将軍を通じて、ド・ゴールとの統一協議のための会談を呼びかけた。両者の協議はその後順調に進んだが、ジローはド・ゴールを完全には信用しておらず、クーデターを警戒して治安責任者にはド・ゴールと不仲であったエミール・ミュズリエ(en:Émile Muselier)提督を指名した。6月3日、自由フランスと北アフリカの統合が成立し、ジローとド・ゴールを共同議長とする国民解放委員会(en、CFLN)が設立された。 その後もジローとド・ゴールの確執は続き、6月にはド・ゴールが辞表を提出してジローが慰留するという事件もあった。ジローは7月に訪米したが、ルーズベルト大統領はド・ゴールについての懸念を伝えた。またジローはド・ゴール派の影響を抑えるために、アメリカのさらなる支援を要請した。当時アルジェではド・ゴール派とジロー派による宣伝合戦が起こっており、ジローは自らの暗殺を懸念していた。9月12日から10月4日には自らの軍隊を率いてコルシカ島攻略作戦(ヴェスヴェ作戦、pl)に参加した。9月17日にはフランス対独抵抗派の統一のための暫定協議会(fr)が設立され、司令官となった。しかしコルシカにはド・ゴール派による蜂起が発生しており、さらなる確執の元となった。10月4日、ジローとド・ゴールの会談が行われたが、ド・ゴールはジローの行政手法を非難した。この席でジローは「あなたはわたしに政治の話をする」と語ったが、ド・ゴールは「そのとおりです。我々は戦争をしているのです。戦争、それはひとつの政治です。」と返した。ド・ゴールはこの会談でジローの解任を決意したという。権力闘争に敗れたジローは11月9日に議長の地位を失った。軍司令官と暫定協議会司令官の地位は保持したが、解放委員会によって1944年4月9日に解任された。この後陸軍総監(Inspecteur général des armées)の地位を提示されたが拒否した。8月28日にはアルジェリアで暗殺未遂にあい、負傷した。
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