国民議会での演説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:50 UTC 版)
「クレール・ラコンブ」の記事における「国民議会での演説」の解説
1789年7月14日のバスティーユ襲撃から3年が経った1792年にパリに移り住んだラコンブは、場末に宿を借り、パリ庶民の生活、生活必需品の欠乏や価格の高騰、劣悪な生活条件を目の当たりにした。立法議会やジャコバン・クラブに足を運び、同年7月25日には、全国三部会から離脱した第三身分(平民)を中心として形成された国民議会(憲法制定国民議会)で「フランス人女性、芸人、失業者」として、「(隷属に抗議した)古代ローマの女性の勇気と、暴君に対する憎しみをもって」、ネロやカリグラのような暴君・祖国の敵と戦うことが自分の義務であるとし、女性たちに、「子どもに自由への愛と暴君に対する憎しみを教え込むことで、母としての義務を果たすべきである」と訴えた。さらに国民議会に対しては、(共和政ローマを転覆しようとした)カティリナのような敵(共和派を弾圧したラファイエットを指す)を軍の指導者にしておくわけにはいかない、第三身分から指導者を選ぶべきであると主張した。国民議会議長はこれに応えて、「自由のための武装を訴える」ラコンブの「愛国心」を称えた。
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