国民議会での討論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:32 UTC 版)
1974年11月26日、シモーヌ・ヴェイユは次のように訴えた。 私は心底、確信している。人工妊娠中絶は今後も例外的なもの、出口のない状況における最後の手段でなければならないと。しかし、このように例外的な性質を失うことなく、また社会が中絶を助長することなく、しかもこれを許容するためにはどうしたらいいのか。私はまず、ほとんど男性ばかりのこの国民議会において、女性としての私の信念を伝えることをお許しいただきたい。自ら進んで中絶手術を受けようなどと思う女性は一人もいない。女性たちの話を聞くと、それがよくわかる。中絶とは常に深刻な事態であり、それは今後も変わらない。だからこそ、今日、提出する法案により、このような既成事実となった状況を検討しなければならないのであり、これが人工妊娠中絶の可能性を開くとしたら、それは中絶に関する枠組みを定め、女性たちに中絶を思いとどまらせるためである。 3日にわたる討論で74人の議員が演壇に立った。 反対派のなかでもジャン・フォワイエ(フランス語版)元法務大臣は、「ご存知のように、既に資本家らが死の産業に投資したくてうずうずしている。遠からず、フランスで死児が積み重なるアボルトワール(「中絶手術を行う施設」の蔑称)、否、アバトワール(屠殺場)が誕生することになるだろう」と激しく攻撃した。 ミシェル・ドブレ元首相は、人口減少による経済への影響を指摘したが、エレーヌ・ミソフ議員は、後に反対のための反対にすぎなかったと回想している。 医師会からは、中絶を自由化すれば、「胎児を使った実験の準備をすることになり、障害者、難病患者、高齢者の排除、人種優生政策にすらつながりかねない」という趣旨の手紙が届いた。 挙句は、シモーヌ・ヴェイユがアウシュヴィッツ強制収容所からの生還者であることも忘れて、胎児を「(強制収容所の)死体焼却炉に投げ込むようなものだ」と心ない暴言を吐く議員すらいた。シモーヌ・ヴェイユは涙を流し、その夜、一晩中泣き続けたという。 一方、「経口避妊薬の父」リュシアン・ヌーヴィルト議員はこうした「圧倒的かつ何百年も変わらない男のエゴイズム」を非難した。 また、バチカンがこの法案を厳しく非難していたにもかかわらず、非常に敬虔なカトリック教徒のウジェーヌ・クロディウス=プティ議員は、「中絶につながるすべての行為に反対するが、この法案には賛成する」とし、拍手喝采を受けた。 1974年11月29日早朝、賛成284票、反対189票で法案は可決された。 1975年1月17日に、フランスでは人工妊娠中絶は合法化された。これはカトリック主要国で初であった。
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