澤田隆治
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澤田 隆治(さわだ たかはる、1933年〈昭和8年〉3月18日 - 2021年〈令和3年〉5月16日)は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター、ラジオプロデューサー。テレビランド代表取締役社長。
- ^ 追悼・澤田隆治さん 喜劇人たちの思いを歴史に残した限りない愛 作家・大島幹雄(好書好日 2021/6/30)
- ^ この論文は後に『兵庫県の歴史』に所収された。[1]大阪経済大学日本経済史研究所 『経済史文献解題』データベース:解題情報 ちなみにこの論文のネタとなった古文書を所蔵していた「淡路島の山口家」とは山口崇の実家である。
- ^ 小林信彦『日本の喜劇人』新潮文庫P.222〜224
- ^ 澤田隆治さん死去「てなもんや三度笠」「花王名人劇場」 - 朝日新聞デジタル 2021年5月16日
澤田隆治
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『スチャラカ社員』『てなもんや三度笠』は、香川の脚本と澤田隆治の演出との名コンビで、日本の芸能史上に残る伝説的番組となった。だが、互いにアクの強い人物である香川と澤田はその喜劇に懸ける姿勢を巡って対立し、最終的に番組はもちろん、澤田個人を含むABCテレビ全体や当時のキー局だったTBSテレビ、さらにはライバル局の毎日放送(MBS)やそのキー局だった日本教育テレビ(NET)の運命をも左右した。 ライバルのMBSが『サモン日曜お笑い劇場(現:よしもと新喜劇)』で猛追撃をかける中、1966年(昭和41年)のABCセンター完成と前後した『スチャラカ』のテコ入れをめぐり、視聴率を最優先するあまり時代に迎合したギャグを求めた澤田と出演者の特性を理解したスタイルで書き続けたかった香川の間の対立が表面化する。1967年(昭和42年)4月、「視聴率最優先でギャグを書けなんて自分には無理。もうこれ以上書けまへん」と自ら降板、6年あまり続いた『スチャラカ』が打ち切られると、その影響は『三度笠』にも飛び火し、1968年(昭和43年)4月改編で打ち切られた。 詳細は「日曜笑劇場#腸捻転時代」および「澤田隆治#朝日放送在職時代」を参照 その後は、9歳年下だった澤田がディレクターを一時外されるなど朝日放送内の閑職に左遷され(これが後に澤田が東阪企画を立ち上げるきっかけになった)、以降の『てなもんや』シリーズは香川が脚本で、演出は他の人物とによるものとなった。 詳細は「スチャラカ社員#番組の終了」および「てなもんや一本槍#概要」を参照
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