朝日放送在職時代
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入社同期には「必殺シリーズ」を生んだ山内久司、高校野球中継などの実況で有名なアナウンサーの植草貞夫らがいる。当時朝日放送はラジオ単営局だったため、ラジオ番組の演芸プロデューサーとして「東西寄席風景」「漫才教室」「浪曲歌合戦」「上方寄席囃子」などのお笑いラジオ番組を主に担当する。また、上司の松本昇三のもとで現在も続く落語会「上方落語をきく会」を企画した。 1958年(昭和33年)、朝日放送と新日本放送(後のMBSメディアホールディングス(毎日放送))の合弁だった大阪テレビ放送(OTV)の合弁解消が決まり、吸収合併されることになったOTVへと出向することになる。OTVでの初演出は『パッチリ天国』、ラジオ東京テレビ(KRT)にもネットされていたダイマル・ラケット、森光子主演の『びっくり捕物帳』の人気コメディ番組でディレクターを担当。合併し、朝日放送大阪テレビを経て「ABCテレビ」に変わった後も『スチャラカ社員』『てなもんや三度笠』『ごろんぼ波止場』『新婚さんいらっしゃい!』などの公開コメディ・バラエティ番組を次々とヒットさせる。なかでも、香川登志緒脚本・藤田まこと主演で澤田が演出した「てなもんや三度笠」は、最高視聴率64.8%を獲得する「お化け番組」となり、社会現象ともなった。『てなもんや-』の映画シリーズ全5作、および『スチャラカ社員』の映画版では、香川が原作、澤田は共同脚本に名を連ねた。 草創期のテレビ制作者の中では最も早くから視聴率第一主義をとっていた一人で、一瞬のギャグのリハーサルに30分・1時間かかることが珍しくなく、厳しい演出で知られ、タレントたちからは「魔王」と恐れられていたという。 しかし、昭和40年代に入ってから香川は「もうこれ以上書けまへん」と匙を投げて『スチャラカ』を降板、1967年(昭和42年)4月、番組は終了となる。そして2人の対立は『てなもんや』にも飛び火して、こちらも1968年(昭和43年)4月改編で打ち切りとなる。『てなもんや』終了後の後継番組『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』『スコッチョ大旅行』は結局主演の藤田・脚本の香川が続投したものの澤田は関わらず、いずれも1年以上持たずに終了する。 『てなもんや三度笠』終了後、バラエティ番組の制作と平行する形で、澤田はテレビドラマの制作にも乗り出した。1968年には高田浩吉主演の『伝七捕物帳』を、1969年(昭和44年)には本郷功次郎主演の『天保つむじ風』をそれぞれ手掛けた。いずれも後の『裸の大将放浪記』シリーズに繋がる礎となった。 ABC、MBS、KTV、YTV、松竹芸能の共同出資で、1970年(昭和45年)に設立された制作会社「ビデオワーク」へ出向。澤田は松竹の正司敏江・玲児を見い出し、帯番組『敏江・玲児だ、みんな集まれ!』。週末の『あきれた学園』『ミニミニ社員』と週7日、2人のレギュラーを配置するという勝負に出た。どつき漫才の敏江・玲児は全国区の人気者になった。しかし『ミニミニ-』は4ヶ月で打ち切りとなり、1971年(昭和46年)、『新婚さん-』の立ち上げに弟の尾上ともども関わるものの、実際のプロデュースは後輩の三上泰生が務めるという冷遇を受けた。 澤田はスタート直後にビデオワークから報道局ラジオ報道部へ異動となり、バラエティの世界から一旦離れることとなった。
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