水商での再開(1946-1973)
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「水戸市立図書館」の記事における「水商での再開(1946-1973)」の解説
蔵書のほとんどと館舎を失った水戸市立図書館の再開は1945年(昭和20年)12月12日の水戸市会で決したが、資材不足で実際に着工することはできなかった。そこで戦災を免れた茨城県立水戸商業学校(現・茨城県立水戸商業高等学校、以下「水商」と略記)の武道場を借用し、1946年(昭和21年)1月に事務を再開、2月に疎開先から図書と書架を回収して5月1日に一般の利用を再開した。水商の武道場(66坪≒218.2m2)はすでに茨城県立図書館が仮館として借用していたため、場内を二分する形で利用した。再開間もない5月26日にはGHQの指示により、軍国主義的ないし超国家主義的とされた図書575冊を焼却処分し、約1,500冊しかなかった焼け残り図書がさらに少なくなった。軍から払い下げられた図書も蔵書に加わったものの、科学系や技術系の図書が中心で、一般向けの図書はあまりなかったようであり、水戸市は1,000円の図書購入費を補正予算に盛り込み、市民には図書の寄贈を求めた。蔵書は少なかったものの、祝祭日のみ休館(日曜日は開館)と開館日数は多く、1人1冊1週間までの貸し出しを行っていた。1950年(昭和25年)から1953年(昭和28年)には秋季夜間開館と称して延長開館を実施した。この頃の図書館の特徴的な利用者として受験勉強の高校生がおり、ここで勉強した82人が東京大学や茨城大学などへ合格したという当時の新聞報道がある。 県立図書館との建物の共有、蔵書数の増加といった課題に直面していたため、水商出身の市会議員らの取り計らいもあり、水商同窓会記念会館へ移転することが決まり、1954年(昭和29年)2月12日に水戸市は水商同窓会記念会館を150万円で専決処分により取得、4月26日に移転して5月1日より開館した。新しい図書館は1934年(昭和9年)に完成した塔屋付きの和洋折衷木造モルタル2階建ての建物で、延床面積は222.3m2あり、1階を書庫と事務室、2階を閲覧室としていた。1955年(昭和30年)12月31日時点の蔵書数は図書12,907冊、雑誌3,001冊であった。 移転直後の図書館には学生を中心として多くの来館者が訪れたが、資料購入予算が十分に与えられなかったこともあり、利用者数・利用冊数ともに年々減少していった。そこで1960年(昭和35年)より市内の婦人会役員宅に50冊程度の本を詰めた木箱を設置してもらい、1か月ごとに巡回する巡回文庫を始めたところ、すぐに本が貸し出されるという盛況ぶりであった。また館内でも映画会、レコードコンサートの定期開催や夜間に社会教育団体へ建物を開放する取り組みを行った。正確な年代は不明ながら、この頃貸し出し方式を記帳式からカード式に改めている。しかし利用実績向上には結びつかず、貸出冊数は1960年(昭和35年)度の7,632冊に対し、1965年(昭和40年)度には2,878冊に落ち込み、館内閲覧者数も1960年(昭和35年)度の19,688人から、1965年(昭和40年)度は3,119人に減少している。こうした中で、図書館は休館日を木曜日から日曜日に変更した。 水戸市立図書館は利用促進の次なる一手として、児童に着目した。折しも『中小都市における公共図書館の運営』(中小レポート)や『市民の図書館』が日本図書館協会から発刊されて市町村立図書館の重要性、貸出重視、児童サービス重視などが説かれ、水戸市でも1968年(昭和43年)より児童書の充実方針を掲げ、図書館近隣の小学校に利用を呼びかけるとともに翌1969年(昭和44年)からは「児童巡回文庫」も開始した。この作戦は功を奏し、1967年(昭和42年)度時点では全体の3%に過ぎなかった小学生利用者が1970年(昭和45年)度には68%にまで上昇し、貸出冊数も1966年(昭和41年)度の3,250冊から1970年(昭和45年)度の17,053冊へと増加した。1972年(昭和47年)からは貸し出しを1人2冊10日間に増加・延長し、読書会などの団体向けに特別貸出文庫を設けるなど利便性を高める工夫を行った。
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