東大助手時代
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1930年(昭和5年)、卒業に当たり東京帝国大学動物学教室の助手に採用されることになった。ここでは昆虫学の分野に限らないで貝類、特にヒザラガイ類を研究できることになった。弟、巌との共著の"日本産ヒザラガイ類の研究" は第6報まで出た。しかし1932年(昭和7年)の春に、毎日横浜の本牧から1時間半ほどかけて通勤していることが身体に応えたのか、慢性の腎臓炎になり約3ヶ月自宅で静養しなければならないことになった。回復後、弟に忠告され、東大医学部裏の民家の一室を借りて単身住み、週末だけ横浜に帰宅するという状態が長く続いた。自身に勉学心があったことに加え、毎日家族とは会わないし宿でもゆっくりくつろぐほどの所でないため、朝は朝食後すぐ研究室に出て、夜は夕食後も遅くまで居残るということに自然になって、軟体動物全体、あるいは動物学全般について広い勉学をした。各地から寄せられたヒザラガイ類その他の標本を調べ次第に整理していった。1933年(昭和8年)秋には岩波講座生物学の『腹足類・弁鰓類』を出版したが、これは日本で初めて書かれた頭足類を除く軟体動物の教科書ともいうべきものである。ヒザラガイ類の分類をする傍、ヒラフネガイ・ツメタガイ・ミウライモガイなど諸種の腹足類の解剖を主とした報告を書いた。1936年(昭和11年)には早稲田大学の徳永重康の指揮による第一次満蒙学術調査研究団の報告としてショウトクヒメタニシ Cipangopaludina chengtenensis (Is. Taki, 1936) [syn. Idiopoma chengtenensis Is. Taki, 1936]、ヒロクチモノアラガイ Radix auricularia (Linnaeus, 1758)、ヤマホタルガイ Cochlicopa lubrica (O. F. Müller, 1774)、マンシュウマイマイ Bradybaena (Manchurohelix Iw. Taki, 1936)lavrushini T.D.A. Cockerell, 1896 の各種について詳しい解剖・分布・分類上の位置等を多数の図版をつけて説明した力作を出した。1938年(昭和13年)には、かねてから準備していた陸奥湾のヒザラガイ類の報告が東北大学理科報告に英文で出た。これは陸奥湾で採集されたヒザラガイ類の研究で、種数は21種で内4種の新種を含み、各種の外形・殻板肉帯上の鱗片・棘・歯舌等を多数の図版を添えて詳細に記載し、また各種の分布を詳説したもので、日本産ヒザラガイ類の文献として一つの注日すべき位置を占めるものとなった。これを主論文として1938年(昭和13年)4月27日、東京大学から理学博士の学位を授与された。1938年(昭和13年)5月、黒田徳米が台北帝国大学に転勤になるのに伴い、緊急理事会を催して協議しヴヰナスの編集・出版を庸が引き受けることになった。京都で誕生した日本貝類学会の中心が東京に移り、南京に1942年(昭和17年)に転出するまで続いた。同年9月、東横百貨店で貝類展覧会が催されたが、これは貝類学会が一般大衆に啓蒙的運動をしたことの最初のもので、庸は何日間か赴いて公衆に展示品の説明をした。一方ツノオリイレ類・カリバガサ科・ヒザラガイ類新種について報告もしており、1938年、動物学雑誌50巻にて"日本近海産軟休動物の分布に就ての考察"を報告した。なおこれついてはより詳細に日本学術協会で講演した(要旨は日本協会報告, 14 (1939):316 − 9)。同年秋には貝類学会創立10周年記念大会を大阪市赤川小学校で催し、リュウグウボタル類とマルフミガイ類の分類について講演した。1939年(昭和14年)9月には平瀬信太郎が逝去したが、氏は自身の貝類学関係の後のことは滝さんにお願いするようにと遺言していたという。同氏の写していたヒダリマキマイマイの写真を表紙画にして追悼記念号を自ら企画し、翌年出した(ヴヰナス、10巻1号)。1939年(昭和14年)3月には動物学会例会でウミマイマイについて講演したが、その内容は発表されておらず南京止め置きのため資料もないので詳細は不明であるが、前年秋に大阪から熊本と学会に引続いて出席した帰途福岡県 三池附近に立寄って親しく採集して帰っているため、形態・生態について詳しい記録を作っていたことは確かである。1939年(昭和14年)11月、興亜院嘱託として南京と杭州に出張し、中支に残存した貝類標本の整理に当たった。翌15年(1940年)6月から9月の約3ヶ月間、同様に興亜院嘱託で隊長を東大助教授多田文男に、内蒙古学術調査に動物学班長として出張し、同地の動物について広く調査したが、その様子を3篇書いた。さらに翌年の夏にも約3ヶ月間、第二次調査に参加した。第1回探検の報告として"蒙古に於ける動物分布相に就て"という単行本を刊行した。61種の巻貝・二枚貝を記載した"満洲産陸水貝類"を1940年(昭和15年)7月に出版し、翌41年には"タイワンカクタニシの解剖"を書いた。
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