東大一直線とその後の苦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:42 UTC 版)
「小林よしのり」の記事における「東大一直線とその後の苦闘」の解説
『東大一直線』の投稿から『東大快進撃』の終了までは『東大一直線』を参照。 当時は福岡で執筆活動を行っていたが、1982年に上京、信濃町に住む。どうせなら東京の真ん中に住もうと思ったが、どこが真ん中なのかわからず、ここがそうだろうと東宮御所のすぐそばに居を構えたものの、生活に不便だったため、その後すぐ引っ越したという逸話がある。『東大快進撃』終了後、『週刊ヤングジャンプ』当時副編集長の角南攻から、どんな作品を描いても大丈夫と太鼓判を押された小林は、ラブコメ等軟弱化した若者に喝を与える「(誅)天罰研究会」を連載開始。これが連載第一回から、人気投票でグラビアページ以下の最下位を記録する屈辱を味わう羽目になり、打ち切りとなる。その後、集英社との専属契約を終了。当時の作品は、『風雲わなげ野郎』『メンぱっちん』など。 この頃手塚治虫の手法として有名なスター・システムを、小林も一時的に使っており、その一例として『東大一直線』のチョンマゲ先生や『(誅)天罰研究会』の首長の竜などが挙げられる。小林がいちばん何とかしてあげたいと思っていたのは『東大一直線』の名脇役、多分田吾作で、『メンぱっちん』の敵役の他、主役とした読切「多分・ザ・ジゴロ」などを発表した。 後に多分を発展させたキャラで『ヤングジャンプ』に読切「布抜呆作伝」を掲載。さらに『週刊少年チャンピオン』にて『いろはにほう作』として連載を行い、単行本にして全9巻と『東大一直線』に次ぐ記録となる。
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