李日成ラインとは? わかりやすく解説

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李承晩ライン

(李日成ライン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 06:27 UTC 版)

李承晩ライン(りしょうばんライン[注釈 1]、イスンマンライン)は、1952年(昭和27年)1月18日韓国初代大統領李承晩が大統領令(国務院告示第14号)「隣接海洋に対する主権宣言」[1]を公表して設定した「韓国と周辺国との間の水域区分と資源と主権の保護のため」と主張する海洋境界線である。


注釈

  1. ^ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語音読みにする慣例があった。
  2. ^ 外交防衛委員会調査室 高藤奈央子『竹島問題の発端 ~韓国による竹島占拠の開始時における国会論議を中心に振り返る~ 』によれば翌年6月である。「1946年6月から、連合国総司令部はSCAPIN第 1033 号をもって、「マッカーサー・ライン」を規定し、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めていた。 」[3]
  3. ^ 「1955年3月、重光外務大臣は「日韓関係はどうしても一つ正常な関係また有効な関係を樹立したいと思っている。竹島問題の処理は譲るわけにはいかないが、そこに全体の空気を改善して、日韓関係の友好化の道がもし開かれるとするならば、この問題も将来解決する道がつくのではないか。しばらく 議論はこの問題に集中しない方がいいと考えている」と述べ、国交正常化交渉の進展を優先させる方針を示した。」[9]
  4. ^ 「お尋ねについては、統計により様々な数字があると承知しているが、政府としては、千九百五十三年から千九百六十五年までの間、大韓民国政府がいわゆる「李承晩ライン」を一方的に設定することにより鉱物資源、水産資源等に対して同国の主権を行使する水域であると主張して設定した区域において、同国政府にだ捕又は抑留された日本漁船及び日本人の数は、二百三十三隻及び二千七百九十一人と承知している。」[11]
  5. ^ 「韓国の拿捕は対馬北方から東シナ海北部そして黄海南部にかけての広い海域で行われ、とりわけ済州島周辺に集中している。」[16]
  6. ^ 「大村収容所に今千数百名の韓国人が抑留されております。これはいずれも法務省により韓国に強制退去処分を受けまして、船待ちの者でございます。そのうちの大体千百名ぐらいの者は、これは韓国から不法入国をいたした者でありまして、いわば密入国いたしました者がつかまりまして、それでそのまま退去処分になったという者でございます。それ以外の三百五十名程度の者は、これは終戦前から日本に居住しておりました韓国人でありますが、日本の法規を犯した等の理由のために、出入国管理令によりまして強制退去処分に付せられておる者であります。」第22回国会 参議院 外務委員会 1955(昭和30)年10月20日 中川融 外務省アジア局長
  7. ^ 「これは刑の執行のために収容しておるのではございません。刑が執行されたその後の何であります。」参議院 内閣委員会 1955(昭和30)年11月1日 重光葵 外務大臣
  8. ^ 「実際刑務所で刑期を終りまして出て参りました者の中から、大体、われわれの基準で申しますと、非常に凶悪な悪質な犯罪者、たとえて申しますならば殺人とか強盗とかいう種類の犯罪者、あるいはたとえば麻薬関係、それからヒロポンの、これも単に媒介とか使用したというのでなくして、製造をやっておるというような非常に悪質な者、あるいは普通の犯罪者でございますと大体三犯以上くらいの者で、われわれの観念からいたしまして犯罪の上に生活が成り立っておるのではないかというふうに認めざるを得ないような悪質者を退去強制処分に付しております。そうしてそれを大村に送っておるのでございますが、これは大村に収容すること自体が目的というわけでは毛頭ないのでございまして、通常の場合退去強制処分に付しました者はその退去の確保をいたしますために収容しておるのでございます。」「大村におります全員は千六百八十五でございます。そのうち密入国が千二百六十三でございます。それで、これを引きました数が四百二十二となりますが、この中には、いわゆる犯罪以外のもの、と申しますのは、いわゆる不法残留、正規に入りまして、その在留資格がなくなったにもかかわらずとどまっておるというような者、そのほかの理由で逮捕になった者も含んでおりまして、先ほど申しましたような、いわゆる凶悪犯罪あるいは累犯というような理由で逮捕した者は、このうち三百七十という数字でございます。」「今、日韓間におきまして問題になっておりますのは、この密入国者は除かれておるのであります。」衆議院 法務委員会 1955(昭和30)年12月8日 内田藤雄 入国管理局長
  9. ^ 伊関佑二郎(法務省入国管理局長)「御承知のように、この問題は一昨年の春から起って参ったわけでありまするが、当初は純然たる日本に抑留されておりまする韓国人と、それから韓国に抑留されておりまする漁夫との釈放というだけの問題で出発したわけでございまするが、後になりまして、韓国側で、この問題に全面会談を必ず開くのだという、まあ一種の政治的な条件をつけて参りました。多少交渉が長引いたわけでございまするが、日本側といたしましても、いずれ全面会談も開かれなくちゃならぬ。そうなれば全面会談の内容そのものに入るわけではございませんけれども、できるだけこの機会に、全面会談で取り上げるべき諸問題についても意見を交換しておくということが有意義であろうかとも考えました。全面会談を開くこと自体については異議がございませんでしたので、その問題に関連して交渉が行われて参ったのであります。」[19]
  10. ^ 「韓国抑留日本人漁夫の釈放を早期に実現せしめ、併せて日韓関係正常化への途を拓くことを目的として、日韓両国代表間に、かねて交渉を行ってきたところ、本12月31日韓国抑留日本人漁夫と入国者収容所にある韓人との相互釈放についての日韓両国政府間の了解に関する覚書および日韓全面会談再開に関する覚書等の各文書について双方の意見一致を見、本日外務大臣公邸において関係各文書の署名を了した。右覚書の全文および関係文書ならびに共同コミュニケは別添のとおりである。【共同発表】昭和32年12月31日に日本国藤山愛一郎外務大臣と在本邦大韓民国代表部代表金裕沢大使との間で行われた会談において、日本国政府が、第二次世界大戦の終了前から日本国に引き続き居住している韓人で日本国の入国者収容所に収容されているものを釈放すること及び大韓民国政府が、韓国の外国人収容所に収容されている日本人漁夫を送還し、かつ、第二次世界大戦後の韓人不法入国者の送還を受け入れることが合意された。同時に、日本国政府は、大韓民国政府に対し、日本国政府が、昭和28年10月15日に久保田貫一郎日本側主席代表が行った発言を撤回し、かつ、昭和32年12月31日付の合衆国政府の見解の表明を基礎として、昭和27年3月6日に日本国と大韓民国との間の会談において日本側代表が行った在韓財産に対する請求権主張を撤回することを通告した。その結果、日本国と大韓民国との間の全面会談は、東京で昭和33年3月1日に再開されることが合意された。(以下関係文書省略)」 外務省情報文化局「韓国抑留日本人漁夫と入国者収容所にある韓人との相互釈放等についての取極成立について」1957年12月31日発表
  11. ^ 解放途中の日本政府答弁によれば「474人」: 伊関佑二郎(法務省入国管理局長)「刑期を終えて大村に収容されております者の、いわゆる刑余者の釈放問題と、それから不法入国者の韓国への引き取りの問題、この二点ございますが、不法入国者、現在浜松並びに大村に収容されておりまする不法入国者約千二百名の韓国への引き取りの問題につきましては、まだ韓国側の準備が整わないものと見えまして開始されておりません。刑余者の国内釈放はすでに実施しておりまして、本日夕方までには四百七十四名のうち約三分の二が釈放されることになっております。私どもの方は身元引き受けのある者を最初に釈放するという方針でおりまして、大体本日の釈放によりまして、身元引受者のある者は全部出ることになっております。身元引き受けのない者は少し延ばしまして、大体今月の十日前後に全部これを終える予定であります。」[22]
  12. ^ 「1.抑留者相互釈放及び全面会談再開に関する日韓両国政府間取極の締結。日韓間取極は昭和32年12月31日締結されたが本取極の主たる内容は次のとおり。(1)日本政府は在日韓人刑余者で入国者収容所に収容中の者474名を国内釈放する。取極発効後は在日韓人刑余者の収容をしばらく自制する。(2)韓国政府は刑を了した日本人漁夫922名を送還し、及び第二次大戦後の韓人不法入国者の送還を受け入れる。(3)両国政府は右(1)及び(2)の措置を取極発効後1月半以内に完了する。(4)日韓全面会談を昭和33年3月1日東京で再開する。(5)日韓両国政府は財産請求権問題に関し、「アメリカの解釈」に同意する。(6)日本政府は久保田発言を撤回し、且「アメリカの解釈」を基礎として、在韓財産に対する請求権の主張を撤回する。(7)日本政府は国有韓国美術品で直ちに引渡し可能なものを韓国政府に引渡す。その他の韓国美術品の引渡しについては、全面会談で討議及び処理する。(口頭伝達事項)」[24]
  13. ^ 大阪刑務所では1955年2月27日に服役中の韓国人が日本人看守の暴行により死亡する事件も起きている[28]
  14. ^ 「1943年11月27日、米英中三国の首脳(ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統)の署名したカイロ宣言で「三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしめる決意を有する」と述べ、さらに1945年7月26日に同じ三国首脳の署名したポツダム宣言で「カイロ宣言の条項は履行せらるべく…」と朝鮮の独立を再確認した。ソ連は対日宣戦の中にポツダム宣言に同意したことを明らかにした。その年(1945年)9月2日、ミズーリ号艦上で日本政府が降伏文書に署名した日、連合国総司令部が出した一般命令第1号(陸海軍)の中で「38度線を米ソの軍事分界線として、朝鮮にある日本軍は北緯38度以北はソ連軍に、北緯38度以南は米軍に降伏すべきこと」を記した。9月7日付の太平洋米国陸軍総司令部布告で南朝鮮に米軍政実施が宣言され、米軍は9月8日に仁川に上陸し、9日に京城(ソウル)に進駐し、その日、日本軍司令官・朝鮮総督との間に38度線以南地域の降伏文書調印式が行なわれた。南朝鮮米軍政庁が京城(ソウル)に成立したのは(1945年)9月20日である。」 外務省アジア局北東アジア課内 日韓国交正常化交渉史編纂委員会「日韓国交正常化交渉の記録 総説第1章(1.日本統治の終末と南北朝鮮政府の樹立)」
  15. ^ 「拿捕漁船請求権については、拿捕された時期が(1)韓国独立の時期(昭23.8.15)以前、(2)独立より平和条約発効の時期(昭27.4.28)まで、及び(3)平和条約発効時以降のいずれかに属するかによって次のように性格を異にする。(1)韓国独立前に拿捕されたもの(20隻)在韓米軍によって拿捕されたものについては、わが方は請求権を有しないことになる。(平和条約第4条(b)項該当)(2)韓国独立後平和条約発効までに拿捕されたもの(77隻)韓国側の不法行為によって拿捕されたものと認められるから、わが方は対韓請求権を有している。この請求権は、平和条約第4条(a)項に規定する請求権として両国間の特別取極の対象として処理されるべきものである。(注)「李ライン」は、昭和27年1月18日に設定されたが、設定後の拿捕は77隻中3隻である。(3)平和条約発効後現在までに拿捕されたもの(229隻)これらは、李ライン侵犯を理由として、韓国側に拿捕されたものであって、わが方は上記77隻の場合と同じ理由により対韓請求権を有している。この請求権は、平和条約発効後に発生したものであるから、平和条約第4条(a)項に規定する請求権には該当しない。」[30]
  16. ^ 李承晩ラインが宣言された約3か月後(1952年4月)に海上警備隊(海上保安庁)が発足。同年8月にはその後進である警備隊が発足している。
  17. ^ 海上保安庁巡視船の竹島巡視(1953年~)「昭和28年6月27日:海上保安庁、第1次竹島巡視。島根県所属の設標。来島中の韓国人6名に退去勧告。昭和28年7月12日:海上保安庁、第4次竹島巡視。韓国漁船3隻、韓国警察7名、漁民30名に対し退去を要求したが、韓国側から数十発の銃撃を受ける。昭和29年5月3日:海上保安庁、第23次竹島巡視。竹島に上陸、日本漁船竹島でわかめ漁実施。昭和29年6月17日:韓国内務部、竹島に海洋警備隊を派遣したと発表。昭和29年7月28日:海上保安庁、第27次竹島巡視。韓国警備員6名を確認。昭和29年8月23日:海上保安庁、第28次竹島巡視。韓国旗の掲揚を確認。韓国側から銃撃をうける。昭和29年10月2日:海上保安庁、第29次竹島巡視。無線柱、大砲の設置を確認。昭和29年11月21日:海上保安庁、第30次竹島巡視。砲撃をうける。」(年表より抜粋)[40]
  18. ^ 第23回国会での内田藤雄入国管理局長答弁によれば対象者の人数は370人。「いわゆる凶悪犯罪あるいは累犯というような理由で逮捕した者は、このうち三百七十という数字でございます。」「向う(韓国)は、終戦後に日本に入った者は当然受け取る義務があるということを彼ら自身認めております。ただ、韓国の場合には一般的に義務を認めてもなかなかそれを履行しないという問題がございます。しかし、いまだかって、戦後の密入国者を自分たちは引き取らないということは一ぺんも申しておりません。問題は、戦前からおります朝鮮人につきましての、いわゆるこれが犯罪等の理由によってどうしても日本に置くのは困る、この人間について問題を生じておるわけでございます。従いまして、ただいま向うが国内において釈放せよと要求しておりますのは、まさにこの三百七十名の犯罪者だけでございます。従いまして、今の話がかりにでき上ると仮定いたしますならば、密入国者の送還というものはすぐにできるし、向うが引き取ると思います。そういう状況でございます。」[46]
  19. ^ 「同条1にいう完全かつ最終的に解決されたこととなる両国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題には、この協定の署名の日までに大韓民国による日本漁船のだ捕から生じたすべての請求権が含まれており、したがつて、それらのすべての請求権は、大韓民国政府に対して主張しえないこととなることが確認された。」[59]
  20. ^ 「この拿捕漁船損害に対して、政府は当初は法律的には補償する義務はないとの見解であったが、対韓賠償請求権の放棄にともなって国内補償に方針が決定、その補償額査定などの主管官庁として水産庁が当たることになった。水産庁は、協議会から提出された調査資料を基礎に検討に入った。その結果、損害額は推定72億円であろうと発表したが、協議会の調査では76億円と計算されていた。そこで損害額の再調査を行うとともに、速かなる補償の実施を要望する陳情を行なうこととした。(1965年)4月9日、協議会は日韓漁業対策西日本地方連合会・日本遠洋底曳網漁業協会・日本機船底曳漁業協会・日本遠洋旋網漁業協同組合・全日本会員組合・全国漁業協同組合連合会・日本鰹鮪漁業協同組合連合会・大日本水産会と連名で、次ぎの「拿捕抑留による損害の補償に関する要望書」をもって関係方面に陳情した。日韓漁業交渉の妥結に伴い、漁業の安全が確保される見通しがついたことは、われわれ漁業者のよろこびとするところであります。しかし、今日まで韓国に拿捕された漁船は326隻に達し、未だ帰還せざる漁船は185隻(沈没3隻を含む)におよび、また抑留された乗組員は3903名(うち死亡8名)で、最高3年半という長期の抑留をしいられたものもあります。これら漁船・乗組員の不法拿捕・抑留によって蒙った物的・精神的損害は極めて大きく、物的損害だけでも70数億円にのぼっているのであります。この損害については機会あるごとに、その賠償を韓国側に請求されるよう要請してきたのでありますが、政府は今回の日韓会談の妥結に当り、韓国側の船舶補償要求と相殺され、損害賠償の請求権を放棄して仮調印を行なっております。このことは、当然、日本政府において、この損害が補償されるものと、われわれは思考するのであります。よって政府は、日韓漁業協定の発効後、速かに損害額の補償が実施されますよう要請するものであります。6月8日にも同様な陳情を行なったが、このときは第6あけぼの丸に関しての陳情も行なった。これは、日魯漁業所属の第6あけぼの丸が昭和30年2月14日、韓国海軍艦艇に追突されて沈没、乗組員21人が死亡するという不祥事件であった。そこで所属団体を通じて損害補償等を含めた問題解決を前から要請しつづけてきたが未解決のものである。」[60]
  21. ^ 「李ライン水域は、底びき網漁業(ぐち、はも、たい、えび、たちうお、かれい、ひらめ等)、まき網漁業(あじ、さば)、一本釣り漁業(さば、かつを、ぶり、いか等)、延縄漁業(たい、かじき、ふか等)、しいら漬、かじき突棒等の好漁場である。このため、李ラインを認めないわが国の立場からして、日本漁船はだ捕の危険を冒して出漁した。しかし韓国のだ捕攻勢は激しく、その上昭和25年以来行なわれていた中共によるだ捕事件も増加したため、これを憂慮した日本政府は、昭和27年5月23日の閣議決定により、海上保安庁巡視船を水産庁監視船と協力して操業秩序の維持と漁業保護に当らせることとなり(水産庁監視船は、昭和24年以来、マッカーサー・ラインを侵犯する日本漁船の監視に当ってきた)、昭和27年7月以降、李ライン水域に常時4隻、最高7隻の巡視船を配置し、釜山等韓国警備艇の基地の領海外に待ち受けてその動静を把握し、日本漁船の退避を助ける「特別哨戒」の任務に当ってきた。しかしながら、韓国によるだ捕は跡を絶たず、昭和22年以降現在までにだ捕された漁船及び抑留された乗組員は、327隻、3911人に及びうち漁船は、沈没3隻、未帰還182隻、乗組員は銃撃による死亡及び抑留中の死亡併せて8人(その他は全員帰還)を数えている(資料24、韓国によりだ捕された日本漁船の統計参照)。なお、右のような漁船だ捕及びだ捕回避のために生じた損害は、約72億円(最近の業界の算定では約90億円)と推定されている。しかし、請求権協定により、わが国は、だ捕によって生じたすべての対韓請求権を放棄することとなったため、業界では国内補償措置を要求しており、政府も別途処理する意向を明らかにしている(なお、従来だ捕保険等により約14億円は支払い済みである)。」[61]。日本政府は拿捕漁船損害に対して当初は法律的には補償する義務はないとの見解であったが、対韓賠償請求権の放棄に伴い国内補償に方針が決定、拿捕保険および見舞金等、既に処置済みのものを差引き、1967年に日本政府は拿捕被害者に特別給付金(約38億円)を支給した。1967年3月16日、水産庁「韓国拿捕漁船特別給付金の支給状況について」による拿捕漁船認定数は、拿捕漁船325隻、抑留乗組員3796人、障害者84人、死亡者29人(第6あけぼの丸追突事故死亡者21人を含む)である[62]
  22. ^ a b 「農林大臣による拿捕漁船認定は、第一回分が(1966年)6月13日に214隻について発表された。この特別給付金は26億4000万円で、管轄県は長崎64隻、山口59隻、福岡41隻、佐賀12隻、島根11隻、鳥取9隻、愛媛5隻、鹿児島5隻、兵庫4隻、静岡・香川・熊本・大分が各1隻である。第二回分の認定は、7月26日に66隻について発表された。特別給付金は7億円、管轄県は山口43隻、長崎13隻、福岡9隻、徳島1隻である。ところが第三回認定を前にして、次ぎの二つの問題から作業が遅れ、当初は41年度会計期末までに特別給付金の交付を完了する予定であったものが、年度を越す惧れが出てきた。一つは、韓国独立前の拿捕漁船の取扱いについて、大蔵省から異議のあったことである。大蔵省法規課の解釈によると、韓国独立の前と後とでは拿捕事件も法的に差違があり、独立後の拿捕は韓国政府の行為であるから問題はないが、独立前は米軍の行為であり、これらについては平和条約で請求権を放棄しているから、特別給付金の対象とはならないというものである。これは当時、在外資産の補償問題ともからんでくるため、大蔵省としても法的解釈をあいまいにできない問題であった。いま一つは、拿捕船として認定できないものが出て、それを枠外とすることについてであった。これは前記した第6あけぼの丸についてであり、五島沖において韓国艦艇に追突されて沈没、乗組員21人が死んだというケースである。ともあれ第三回分の認定は、年が明けた昭和42年(1967年)1月5日に13隻が発表された。特別給付金は4400万円、管轄県は山口6隻、福岡8隻である。次いで第四回分の認定は、3月7日に4隻が発表された。特別給付金は480万円、管轄県は山口である。大蔵省から異議の出された韓国独立前の拿捕船問題は、最終的には、独立前のものも含めることに決定、第五回分の認定が3月9日に発表された。この中には、協議会の折衝によって第6あけぼの丸も加わり28隻、管轄県は山口13隻、福岡8隻、佐賀3隻、鳥取2隻、長崎・兵庫1隻である。こうして拿捕漁船認定と給付金の決定を終えた水産庁は3月16日、「韓国拿捕漁船特別給付金の支給状況について」において、次ぎのように述べている。(人数・金額については4月25日に修正されたものである)(1)3月9日付けで28隻を拿捕漁船として認定し、これをもって認定事務は完了した。拿捕漁船の総数は325隻となった。(2)325隻の認定に伴って見込まれる特別給付金支給額は次ぎのとおりである。船主特別給付金(321隻分)24億7606万3000円、抑留乗組員特別給付金(3796人分)11億1650万2000円、死亡者特別給付金(29人分)1億3050万円、障害者特別給付金(84人分)8580万円、合計38億886万5000円(3)認定もれとなった漁船は33隻である。また、死亡者・障害者に該当しないこととした者は52人である。(4)認定漁船中、枠内漁船でもれたもの10隻、枠外漁船で認定されたもの8隻である。」[63]

出典

  1. ^ 外務省アジア局北東アジア課「第7次日韓全面会談における漁業交渉(未定稿)」(付属資料1.隣接海洋に対する主権宣言 1952年1月18日)1968年10月15日
  2. ^ 参議院外務委員会調査室「日韓基本条約及び諸協定等に関する参考資料」1965年10月,P76
  3. ^ 竹島問題の発端 ~韓国による竹島占拠の開始時における国会論議を中心に振り返る~ 外交防衛委員会調査室 高藤奈央子 (PDF)
  4. ^ 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』(日韓漁業対策関係年表)1968年2月,P441 ※GHQより日本政府に覚書が手渡され、対日平和条約発効直前の1952年4月25日にマッカーサー・ラインは廃止された。
  5. ^ “[박정희 생애] 제6부 쿠데타 연습-이승만제거계획(2) - (183)”. 朝鮮日報. (1998年5月15日) 
  6. ^ https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_beigun.html 外務省「米軍爆撃訓練区域としての竹島」2021/9/3更新(2022/1/12閲覧)
  7. ^ https://www.spf.org/islandstudies/jp/info_library/takeshima-t-01-history--t_01_history019.html 笹川平和財団海洋政策研究所島嶼資料センター情報ライブラリ『1953年3月19日 竹島の爆撃訓練区域指定の解除』
  8. ^ https://www.spf.org/islandstudies/jp/info_library/takeshima/t-01-history/t_01_history019-ref01.pdf 外務省から島根県知事に宛てた資料「島根県所在竹島爆撃訓練区域廃止に関する件」(協3合第695号)
  9. ^ 竹島問題の発端 ~韓国による竹島占拠の開始時における国会論議を中心に振り返る~ 外交防衛委員会調査室 高藤奈央子 (PDF) 3『国会論議から振り返る韓国による竹島の占拠 』の(2)『韓国による竹島占拠の法的評価と対応』のオ『日韓関係の優先と竹島問題の先送り』
  10. ^ 「李承晩ライン」の設定と韓国による竹島の不法占拠”. 外務省. 2020年1月30日閲覧。
  11. ^ 第183回国会 亀井亜紀子参議院議員提出「竹島問題に関する質問主意書」に対する政府答弁書(2013年2月8日付)内「五について」
  12. ^ 「海上保安白書」(昭和41年版)によれば、日韓国交を回復する1965年までに、拿捕327隻、拘束3911人出典”. PRESIDENT (2017年9月30日). 2021年11月21日閲覧。
  13. ^ a b 福原裕二「竹島関連言説の検討」(3.李承晩ライン設定によって、竹島周辺海域に出漁した日本漁船が拿捕されたのは事実なのかどうか)島根県立大学『総合政策論叢』第17号 2009年3月,P71-P73
  14. ^ a b 外務省アジア局北東アジア課「第7次日韓全面会談における漁業交渉(未定稿)」(付属資料2.韓国警備艇による本邦漁船拿捕状況 昭和22年~40年)1968年10月15日
  15. ^ 藤井賢二『李承晩ラインと日本漁船拿捕』 (PDF)
  16. ^ a b c 藤井賢二 (2015年). “「李承晩ライン」で韓国が繰り広げたこと”. 産経新聞社. 2016年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月2日閲覧。
  17. ^ a b c 藤井賢二「戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか―竹島問題の現位置」(「竹島周辺」漁業の変化)別冊正論/産経デジタルiRONNA掲載,2015年8月5日(インターネットアーカイブ)(閲覧:2022年1月2日)
  18. ^ a b c d 大島悟「中学校社会科現代史学習における竹島に関する学習の教授書開発の意義と指導の方向性」島根大学大学院教育学研究科 教育実践開発専攻『学校教育実践研究』第1巻 2018年3月,P75
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  23. ^ a b 外務省アジア局北東アジア課内 日韓国交正常化交渉史編纂委員会「日韓国交正常化交渉の記録(総説 第5章)」(第4次日韓会談-1.相互釈放の実施)P5
  24. ^ 外務省アジア局北東アジア課「日韓交渉の経緯とその問題点」1958年11月10日,P1-P2
  25. ^ 外務省アジア局執務月報(抄)(昭和31年1月~12月)P37 ※第3朝日丸(愛媛県)船員(1955年8月5日拿捕、1956年12月7日死亡)
  26. ^ 外務省アジア局執務月報(抄)(昭和32年1月~12月)P14.P17 ※第85大漁丸(福岡県)船員(1954年7月19日拿捕、1957年5月21日死亡)
  27. ^ 外務省アジア局北東アジア課「再開日韓連絡委員会第四回打合せ会」1958年7月8日,P8(議事要旨、韓国側柳公使の発言)
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  29. ^ 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』1968年2月,P124
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  32. ^ 外務省アジア局北東アジア課内 日韓国交正常化交渉史編纂委員会「日韓国交正常化交渉の記録(総説 第1章)」(平和条約発効前の日韓関係と日韓会談予備会談-4.マッカーサーラインと日本漁船の拿捕)P36
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  35. ^ 外務省(川上調査官)「わが国の漁業問題と韓国」1970年6月5日,P25
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  37. ^ 参議院外務委員会調査室「日韓基本条約及び諸協定等に関する参考資料」(日本側のだ捕防止措置)1965年10月,P75
  38. ^ 外務省アジア局北東アジア課内 日韓国交正常化交渉史編纂委員会「日韓国交正常化交渉の記録(総説 第15章)」(竹島問題-3.海上保安庁船の竹島巡視)P15
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  52. ^ 参議院法制局『李承晩ラインと朝鮮防衛水域』1953年、1-9頁。 
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  54. ^ 山崎佳子「韓国政府による竹島領有根拠の創作」(PDF)『第2期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書(平成24年3月)』、島根県竹島問題研究会、2012年3月、pp. 70.。 
  55. ^ 藤井賢二「李承晩ライン宣言と韓国政府」(PDF)『第2期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書(平成24年3月)』、島根県竹島問題研究会、2012年3月、pp. 91.。 
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  57. ^ 大蔵省理財局外債課「船舶問題の経緯」1964年5月4日
  58. ^ 外務省「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(合意された議事録 2.協定第二条に関し(h) )1965年6月22日
  59. ^ 外務省「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(合意された議事録 2.協定第二条に関し(h) )1965年6月22日(昭和40年条約第27号)
  60. ^ 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』(2.拿捕損害補償額の検討-1.当初計算では76億円)1968年2月,P422-P423
  61. ^ 参議院外務委員会調査室「日韓基本条約及び諸協定に関する参考資料」(日本側のだ捕防止措置)1965年10月,P75-P76
  62. ^ 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』1968年2月,P435-P437
  63. ^ 日韓漁業協議会『日韓漁業対策運動史』(2.給付金交付と特別融資-1.五回に分けて拿捕船認定)1968年2月,P435-P437
  64. ^ 大平正芳『私の履歴書』(1978年)[1]
  65. ^ 「韓日国交正常化問題-韓日会談に関する宣伝資料 補完版一」1964(藤井賢二(島根県竹島問題研究顧問)『「李承晩ライン」で韓国が繰り広げたこと』(別冊正論「総復習『日韓併合』」収録)による)[2]
  66. ^ あれが港の灯だ KINENOTE


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