戦後のスキーブーム
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終戦を迎えると日本の主だったスキー場は進駐軍の慰安や休暇のために接収された。各地で本格的な機械式のリフトが懸架されたり、ブルドーザーを始めとした重機類で大規模な造成が行われたりするなど設備が大きく近代化され、その後のブームの揺籃となった。 この頃になると用具も進歩しており、当初は一枚板だったスキー板にはエッジが備わり、素材も合板、スチール、そしてグラスファイバーへと徐々に発展した。 プラスチックブーツの誕生、バインディングの改良といった技術革新もこれに続いた。以前のスキー道具の脱着には若干の専門知識を要したが、器具の改良は取り扱いの平易さと安全性の向上を提供した。 1959年に国鉄が臨時特殊割引乗車券の扱いを始めたことなどを含めて、戦後最初のスキーブームは1961年(昭和36年)に始まる。この年にはスキー客が年間100万人を突破した。スキー場行きの夜行バスが誕生した年であり、「レジャー」が流行語になった。 国は国際的な競争力を養うため、観光基本法を成立し、競争力の高いスキー場を「国際スキー場」に指定するなど後押しした。 背景には高度経済成長による可処分所得の増加、第7回冬季オリンピックにおける猪谷千春の銀メダル獲得といった活躍、同オリンピックで回転・大回転・滑降の3大競技を制覇するなどして活躍したトニー・ザイラーが俳優業に転向後に作られた一連の映画『白銀は招くよ!』(1959年公開)や『銀嶺の王者』(1960年公開)他がある。 ニセコ高原比羅夫スキー場、苗場国際スキー場がこの年に営業開始している。日本へのスキー伝来から50年が経っていた。 1961年11月発行の『週刊平凡』45号(平凡出版)には、「あなたのスキー準備はできましたか!?」という特集がある。平凡はその後も毎年スキーシーズンが近くなると特集記事を掲載しブームの拡大に一役買った。 1962年には自身もスキーで国体出場経験のある加山雄三主演の映画『銀座の若大将』が封切られ、同シリーズの1966年公開『アルプスの若大将』は同年の東宝配給映画としては1位のヒットを記録した。 この頃『アサヒグラフ』誌もスキーシーズンになると国内や海外のスキー場の景色を表紙に取り上げた。またスキー雑誌の『スキージャーナル』は1966年に創刊している。 1964年にはゲレンデスキーヤー(一般スキー、基礎スキー)の頂点を競う大会「全日本デモンストレーター選考会」(現在の全日本スキー技術選手権大会)が初開催された。 東京オリンピックを迎えてスポーツに対する熱が益々盛んとなり、1967年には皇太子明仁夫妻がスキーをする光景も話題になった。 この頃にベビーブーム世代が青年期を迎え、ゲレンデは若者で溢れた。 1967年には上越線の複線化により輸送力が増大し、スキー客を目当てとしたスキー列車も登場した。 旅行代理店によるセット旅行商品が開発され、国鉄は代理店を経由して発行するエック(エコノミー・クーポン)といった割引切符も盛んに宣伝した。 ブームは1972年札幌オリンピックや1973年に苗場で日本初開催のアルペンスキー・ワールドカップで最高潮を迎える。 1971年には新潟県で製造されるスキー台数が210万台を超え、輸出も積極的に行われた。 スキー場の周辺に民宿やペンションが増えたのもこの時期である。 その後一転して団塊世代が就職期を迎えたことや、オイルショックによる景況感の悪化が重なりブームはやや落ち着きを見せる。 一般家庭としては支出の大きなレジャーであるスキーには緊縮の風潮は逆風であったが、一方で田中角栄の日本列島改造論によりリゾート地では不動産の投機的な買占めが起き、その後も大規模なスキー場の開業が相次ぐなどスキーそのものが文化として定着した。
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