戦後のキャリア
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「ユージーン・B・フラッキー」の記事における「戦後のキャリア」の解説
1945年8月、フラッキーはグロトンに赴き、建造中のドッグフィッシュ (USS Dogfish, SS-350) が竣工した暁には艦長に就任することを聞かされる。しかし、ジェームズ・フォレスタル海軍長官の命で艦長の話は取り消され、代わって統合軍計画に参画させた。1945年12月には海軍作戦部長に就任したチェスター・ニミッツ元帥のもとで私的副官と情報作戦参謀に就任した。2年後の1947年6月9日には海上勤務に戻り、シュノーケル装備とGUPPY II 改修が予定されていたハーフビーク (USS Halfbeak, SS-352) の艦長となった。1949年6月、フラッキーは大西洋艦隊潜水部隊に転じ、潜水艦予備部隊を指揮した。翌1950年には大西洋艦隊潜水部隊司令官ジェームズ・ファイフ(英語版)大将(アナポリス1918年組)の首席秘書を務め、1950年10月1日から1953年7月までの間は在ポルトガル海軍駐在武官を務めた。ポルトガル政府はフラッキーのこれまでの功績に対して、自国以外の武官に対しては初めてとなる Medalha Militar を授与された。ポルトガルから帰国後の1953年9月には潜水母艦スペリー(英語版) (USS Sperry, AS-12) の艦長に就任する。1955年10月14日から1956年1月14日までの間は第7潜水戦隊、のちの第7潜水グループの司令を務め、アナポリスで電気工学部門の筆頭講師も勤めた。 1960年7月、フラッキーは時のドワイト・D・アイゼンハワー大統領の推薦を経て少将に進級し、10月には第4水陸両用戦グループ司令官になった。1961年11月には、ワシントンの海軍調査査察委員会で委員長となり、1964年から1966年の間は、太平洋艦隊潜水部隊(英語版)司令官の座に就いた。その後、1966年7月に海軍情報局ディレクター、1968年にポルトガルへの軍事顧問団の団長となったあと、1972年に少将の地位で退役した。1979年に42年間連れ添った妻のマージョリーに先立たれたが、ポルトガル出身のマーガレットと再婚して二番目の妻とし、以降数年の間ポルトガルで孤児院をマーガレットともに運営した。2007年6月28日、フラッキーはアナポリスのアン・アルンデル医療センター(英語版)で死去した。享年93歳。フラッキーの墓は、母校アナポリスの敷地内にある海軍兵学校墓地(英語版)に埋葬されている。 フラッキーは1948年にボーイスカウトからイーグルスカウト(英語版)を受章しており、名誉勲章とイーグルスカウトの双方を所持している9名のうちの一人として記録されている。
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