戦後のオフラハーティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:13 UTC 版)
「ヒュー・オフラハーティ」の記事における「戦後のオフラハーティ」の解説
戦後、オフラハーティの元に今度はドイツ軍関係者たちが保護を求めてやってきた。オフラハーティはかつてユダヤ人や連合軍捕虜を守ったように、今度はドイツ軍関係者をも助けた。オフラハーティの命を狙っていたカプラーは軍事法廷で市民殺害の責任を問われ、ガエータの刑務所で無期懲役に服していた。家族もなく、故郷を離れたカプラーに面会を求める者は誰もいなかったが、ただ一人、オフラハーティは毎月1度必ず訪れていたという。1946年4月、カプラーはオフラハーティの手から洗礼を受け、カトリックに入信した。カプラーはその後、1960年代に癌を患ってローマの病院に入院していたが、そこで知り合って結婚したアンネリーズ・カプラーに助けられて逃亡し、西ドイツへ帰国している。 戦後、オフラハーティの活動を知る英国から大英帝国勲章(CBE)が授与された。イタリア政府は彼に邸宅を贈ったが、オフラハーティは清貧をつらぬき、それを使うことはなかった。1960年、ミサ中に心臓発作を起こしたオフラハーティは、バチカンの激務を退き、故郷アイルランドで療養生活を送ることになった。カヒルシビーン(Cahirciveen)にある妹ブライド・シーハン(Bride Sheehan)の家で療養していたオフラハーティは1963年10月30日、65歳で死去した。遺骸は同地のダニエル・オコンネル記念教会墓地に埋葬された。 オフラハーティの活動は非公式なものであったため、一部の人間にしか知られていなかったが、1967年にイギリスのジャーナリスト、J.P.ギャラガー(J. P. Gallagher)のノンフィクション『バチカンの紅はこべ』(The Scarlet Pimpernel of the Vatican)によって広く世に知られることになった。これをもとに1983年にテレビ映画『赤と黒の十字架』(The Scarlet and the Black)が製作され、名優グレゴリー・ペックがオフラハーティを演じた。 キラーニー国立公園にはオフラハーティを記念した木立がある。 「2003年にイスラエル政府からホロコーストにおけるユダヤ人救出者に贈られる『諸国民の中の正義の人』賞を授与され、エルサレムで彼を記念した植樹が行われた」とする文献があるが、少なくとも授賞に関しては誤りである。
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