戦後のオート三輪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 07:36 UTC 版)
詳細は「オート三輪」を参照 1940年代 - 1950年代の日本におけるモータリゼーション黎明期には、簡易な輸送手段として隆盛を極めた。多くの業種で使われたが、同程度の大きさの四輪トラックよりも格段に小回りが利くことから、四輪トラック普及以降も狭隘な市街地や、林道での材木運搬ではしばらくの間重宝された。 オート三輪はこうしてあまりに際限なく巨大化したため、当時の運輸省は、1955年(昭和30年)に至って、やっと「小型自動車扱いのオート三輪は、現存するモデル以上の大きさにしてはならない」と歯止めを掛けた。オート三輪は元来軽便な貨物車であるという性質もあり、ほぼ全てのオート三輪メーカーは排気量抑制で小型車規格扱いとなるような車種設定に徹していた。 しかし、自動車交通の高速化に伴い、カーブでは転倒しやすく、高速走行に不向きなことや、居住性の悪さが敬遠されるようになる。さらにはメカニズムが高度になり、内外装のデラックス化が進むにつれ、四輪トラックとの価格差が縮小して、市場での競争力を欠くようになった。これでは敢えて三輪とする意義が薄くなってしまったのである。また1965年(昭和40年)の三輪車運転免許の廃止も、オート三輪に対して不利に働いた。 この間、トヨタ自動車のSKB型トラック「トヨエース」(1954年)に代表される廉価な大衆向けの四輪トラックとの競合に伴い、オート三輪業界にも、営業力に劣る準大手・中堅メーカーの撤退・転業や倒産が相次ぐようになる。その中には、より大手のオート三輪メーカーや四輪車メーカーの傘下に入って下請けとなり、やがて吸収された事例もあった。 残存したオート三輪メーカーの多くは、四輪トラックを生産の主流に切り替えるか、後述の軽3輪トラックの生産に活路を見出し、やがて軽4輪トラック等に転業するかの道を辿った。最後までオート三輪市場に残った大手2社の三輪撤退は、ダイハツが1972年(昭和47年)、東洋工業が1974年(昭和49年)である。
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