戦後のクレタ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
1945年に第二次世界大戦が終了した後、アメリカ合衆国を中心とする資本主義陣営(西側)とソヴィエト連邦を中心とする共産主義陣営(東側)による東西の冷戦構造が確立され、ギリシアはイギリスの暗躍もあってバルカン半島で唯一西側陣営に属した。戦後のクレタ島はギリシアの中でも低開発の地方として残された。乳幼児死亡率の低下とともに島の人口は急増したが、経済の発展はそれに追いつかず人口増加圧力は重い負担となった。農業も不振であり生産物・技術ともに旧態依然のまま改革はなされなかったが、工業化も不振であったため、なおクレタ島の主要産業は農業であり続け、オリーブオイルや干しブドウ、柚、アーモンド、イナゴマメ、バナナなどが主力商品としてヨーロッパやエジプトに輸出された。 ギリシアでは1970年代以降、観光ブームによって経済成長がもたらされ、クレタ島でも2000年代までにイギリス・ドイツ・北欧などからの観光客を主顧客とする観光業が発達した。クレタ島にはこの雇用を求めてバルカン諸国やアルバニアから移住者が流入し、人口増加はギリシア本土を上回るペースで進んだが、島内の貧富の格差や民族的緊張、さらには武器の流入などが課題となっている。
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