戦後のシリア逃亡について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:54 UTC 版)
「アロイス・ブルンナー」の記事における「戦後のシリア逃亡について」の解説
ドイツの敗戦時チェコスロバキアにいたブルンナーは、連合軍に見つからぬよう民間人になり済ました。戦後は「アロイス・シュマルディーンスト」という偽名を名乗ってドイツ難民に紛れ込み、西ドイツへ入国。この西ドイツ滞在中、ゲーレン機関に合流してその工作員の一人となっていたとみられる。1954年にブルンナーはドイツを離れているが、同年フランス政府が欠席裁判のままブルンナーに死刑判決を下しているためと思われる。ブルンナーはゲオルク・ギッシャーという人物から旅券を購入し、「ゲオルク・ギッシャー」としてエジプトのカイロへ移住。さらにここからシリア共和国(現在のシリア・アラブ共和国)へ移住した。 これを知った西ドイツ政府、フランス政府、オーストリア政府、ギリシャ政府はシリア政府に対してブルンナーの身柄引き渡しを求めたが、シリアは「記載の住所にブルンナーという人物は見当たらない」と回答し、これらの要求を却下した。そればかりかシリアは極秘裏にブルンナーをユダヤ人問題の専門家としてシリアの諜報機関、「総合情報部」に顧問として招き入れたといわれる。諜報組織の「大先輩」のナチス親衛隊の出身だったブルンナーは、未熟なシリアの諜報機関に独裁体制を支える方法を徹底的に教え込んだという。 しかしブルンナーも安泰ではなかった。ブルンナーには、1961年と1980年の二度にわたって開けると爆発する爆弾の入った手紙が届けられた。ブルンナーは最初の手紙の開封で片目を、二度目の手紙の開封で指を失っていて、これはコーヘンの情報を得てアマン(イスラエル参謀本部諜報局)所属の188部隊が行ったものだった。 1995年にはドイツ政府がブルンナーに33万3,000ドルという巨額の懸賞金を掛けたが、それでもブルンナーは捕まらなかった。業を煮やしたフランスは1999年と2001年の二度にわたり欠席裁判のままブルンナーに終身刑判決を下したが、ブルンナー本人がその場にいない以上意味はなかった。シリアは依然ブルンナーが国内にいることを公式には認めておらず、ブルンナーが今でも生存しているのかどうかは不明であった。2014年12月2日になって、ドイツ情報機関が、逃亡先であるシリアのダマスカスで4年前に死亡していたとみていることが分かった。 2017年1月11日にはAFP通信がフランスの雑誌のスクープ記事を引用した形で、ブルンナーが2001年にダマスカスのアパートの地下室に監禁された状態で死亡していたと伝えた。ブルンナーの警備担当者によると晩年は病気に罹患して泣いてばかりだったという。待遇は非常に劣悪であり、食事は粗末なレーションと卵もしくはジャガイモ1つが支給されるだけであり、入浴も制限されていたという。
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