戦後のウイスキー市場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 23:00 UTC 版)
「ジャパニーズ・ウイスキー」の記事における「戦後のウイスキー市場」の解説
戦後間もない頃は日本人が国産のウイスキーを口にする機会は少なく、連合国軍占領下の日本においては、もっぱらアメリカ軍と軍関係者のために供されていた。鳥井は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に自社製品のウイスキーを売り込み、将校たちから好評を受けた。日本の戦後復興に伴い、ジャパニーズ・ウイスキーの品質と国内需要は上昇する。1946年、寿屋は戦災を逃れた原酒を使用した「トリスウイスキー」を、1950年には戦前に製造した「オールド」を発売する。 昭和30年代に東京や大阪を中心としてトリスバーが続々と開店し、カクテルやハイボールが人気を博した。1952年に大日本果汁は「ニッカウヰスキー」に、1963年に寿屋はサントリーに社名を変更した。1955年に大黒葡萄酒(後にメルシャンが買収)が軽井沢(長野県)に蒸留所を建設した。1960年に本坊酒造は、岩井を招き「竹鶴ノート」をもとに山梨県で本格的なウイスキー生産(現・マルスウイスキー)を始めるが売上は芳しくなく、9年後に一時撤退した。 また1950年代までの日本ではモルトウイスキーのみが生産されている状態だったが、1962年にニッカウヰスキーと関連の深い朝日酒造(アサヒビール子会社)がカフェ式連続蒸留機を導入し本格的にグレーンウイスキーの生産を開始。1969年には三楽酒造(現・メルシャン)も川崎工場にてグレーンウイスキーの生産を開始したほか、1973年にはサントリーも関連会社のサングレイン(現・サントリー知多蒸溜所)でグレーンウイスキーを生産するようになり、スコッチ・ウイスキー同様にモルトとグレーンという2種類のウイスキーをブレンドした本格的ブレンデッド・ウイスキーを生産する体制が整った。 高度経済成長期に日本国内でのウイスキーの消費量は増加し、1980年にサントリーオールドは年間出荷量12,000,000ケース突破という世界記録を樹立した。しかし、1980年初頭を境に日本のウイスキー市場は停滞する。1980年代からの停滞期に、日本の酒造メーカーは様々な試みに取り組み、こうした中で、日本各地の酒造メーカーが生産する地ウイスキーが人気を博した。また、酒税の変更によってウイスキーの価格が下がり、消費者が手に取りやすくなる。 1980年代から2000年代にかけて年ごとにウイスキーの消費量は下降したが、2009年にウイスキーの消費量が回復に向かう。1980年代後半にシングルモルト・ウイスキーが世界的に流行し、遅れて1990年代後半から日本の愛好家の間でもシングルモルト人気が起こる。 2010年代中頃から海外でのブームと国内でのハイボールの人気が重なり、大手でも原酒が不足するようになっている。2018年にサントリーは「響17年」と「白州12年」の販売を休止することになった。販売の再開時期は未定。
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