戦後のあゆみ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 10:01 UTC 版)
第二次世界大戦後、「冷戦」が始まり、東南アジアにおける共産主義の拡大を恐れたアメリカは、フィリピン共産党を核とするフクバラハップに対しても弾圧を強めた。同時に戦時中、日本軍政に協力的だったフィリピン有産階級を新共和国政界に復帰させるなど、反共主義的政策を採った。 こうしてフクバラハップは一時解散されたが、小作料値下げなどの土地改革をめざす農民運動が政府による弾圧を受けたため1947年に再建され、武力抗争を継続した。同年の選挙でタルクらフクバラハップの指導者達は民主同盟(DA)から立候補し、正当に当選を果たしたが、議会制度へのフクバラハップの参加を恐れた議会の保守的な大地主達が議席を剥奪してしまった。そのためフクバラハップは蜂起、その勢いはほとんど共和国政府を転覆するまでとなり、親ソ共産国家樹立も間近かと思われるほどであった。 1948年、キリノ大統領によって和平交渉が試みられたが、武器引き渡しの条件などで意見が一致せず決裂。1950年にはフィリピン人民解放軍(フクボン=マパグパラヤ=ナン=バヤン、'Hukbong Mapagpalaya ng Bayan'略称HMB)と改称し、勢力は正規軍3万人・後備隊25万人に達していた。しかし1951年以降、ラモン・マグサイサイの指揮による政府軍の攻撃を受け弱体化、マグサイサイはルソン島中部で共産党政治局員のほとんどを逮捕し、フクバラハップ叛乱の根幹を抑えてしまった(この功績によって評判を上げたマグサイサイは、1953年の選挙で大統領に当選している)。1954年には指導者のタルクも政府に降伏した。以降、フクバラハップは衰退の一途をたどり、1950年代にはほぼ完全に鎮圧された。
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