慶尚道制圧
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4月17日、日本軍の二番隊、三番隊、四番隊(島津隊は遅参)が相次いで釜山に上陸した。早速、二番隊は陸路と海路で梁山と蔚山に向かい、三番隊はそのまま廻航して洛東江の河口の竹島(竹林洞)に着いた。 17日午後、小西行長と松浦鎮信隊は鵲院(じゃくいん)に迫った。密陽府使朴晋は兵を集めて、洛東江左岸に雲門嶺山地が迫る鵲院関の隘路で待ち伏せ、初めて野戦で迎え撃ち、日本軍の進撃を阻止しようとした。しかし、日本軍の斥候がこの敵兵を発見。二手に分かれ、行長の八代衆が正面から攻撃する間に、鎮信の平戸の鉄砲衆が右側面に回り込み、山手から狙い撃った。朝鮮軍は伏兵に驚き、散々撃たれて遁走した。日本軍は追撃して300名余を討ち取った。朴晋は密陽に戻り、兵器倉庫に火を放つと城を捨てて山中に逃れた。 詳細は「鵲院関の戦い」を参照 他方、李玨は蘇山駅の陣を引き払って兵営城に戻り、まず自分の妾と綿布(税金の代わりに徴収するもの)財産を後方に送った。町は恐慌状態で、住民を斬って鎮撫しようしたが無駄だった。城内も戦々恐々としており、敵襲の誤報が日に何度もあった。李玨は暁に乗じて一人で逃げ去ったので彼の軍は崩壊した。 4月18日、小西行長は密陽を占領した。同じ頃、漢城府一番乗りの功を争っていた加藤清正(二番隊)は梁山に達した。行長が密陽から清道、大邱、尚州に進む中路を取ると伝え聞いた清正は、自らは東路を取ることにして道を転じ、翌日、彦陽を占領した。 4月19日、三番隊の黒田長政と大友吉統は海路から安骨浦を攻撃した。朝鮮軍も港から軍船を出して迎撃し、初めて海戦が発生した。しかし、日本軍は押し返して5隻を奪い、上陸して城に迫った。金海府使徐礼元は金海城の城門を閉ざして抗戦したが、日本軍は城外の藁を刈って堀に投げ入れ、埋め立てて城壁をにじり上った。これを見た草渓郡守李惟倹 が西門を開けて逃亡し、それを見た朝鮮城兵も持ち場を捨てて逃げ出したので、止む無く徐礼元も城を脱出して晋州へ落ち延びた。城はたちまち日本軍の占領することとなり、日本軍が斬った首は数千といわれる。 詳細は「金海城の戦い」を参照 また同じ日、六番隊の小早川隆景が釜山に上陸。五月上旬に後続が上陸を完了するまで同地にあった。また、二番隊の加藤清正と鍋島直茂は連名で長束正家ら秀吉側近の奉行衆に対し、現地は豊富に兵粮が蓄えられていること、小西行長と協議しながら別経路で漢城を目指したいと報告している。 他方、漢城府では、左議政・吏曹判書を兼任する柳成龍が、自身を都体察使に、兵曹判書に腹心の金応南(都体察副使兼任)を任命して、募兵体制を強化した。また申砬を呼び、策を請うた。申砬は「御身は武人ではない。此の際は只速やかに李鎰の後援として、他の猛将を続発せしむべし」 と言い、暗に自分を推挙したので、柳成龍は国王に上奏して申砬を三道都巡察使(慶尚道・忠清道・全羅道の三道の陸軍を統括する官職)に任命した。申砬は名将として誉れ高かったが、人殺しの評判でも恐れられ、一緒に従軍するのを忌避されるほどに人望がなかった。そこで柳成龍が集めた部下を連れていくこととなり、宣祖も李鎰以下誰でも命令に従わぬものはこれで斬れと剣を授けて送り出した。 4月20日、二番隊の加藤清正と鍋島直茂は慶州城を攻撃した。朝鮮城兵は弓で抗戦したが、新任の慶州府尹邊応星はまだ到着しておらず、次官である慶州判官朴毅長は敵の猛攻に恐怖に駆られて逃亡。これで城兵は大混乱に陥り、城内に乱入した日本軍は1500余の首を取った。(慶州城の戦い) 小西行長は4月20日に大邱城を占領し、22日に仁同城を占領。金睟(慶尚道巡察使)は「制勝方略」という事前計画に従い、聞慶以下周辺の守令に檄を飛ばし民を避難させ、大邱に軍兵を集結させ待機していた。ところが、日本軍の急速な進撃を前に招集されたばかりの朝鮮将兵は動揺し、夜の間に脱走して戦う前に軍は潰散してしまった。これによって慶尚道の中路を守る部隊がいなくなった。行長は、23日に浅瀬で洛東江を渡って善山に至った。同じ日、李鎰は尚州城に入ったが、尚州牧使金澥は、出迎えを口実に城を出てそのまま逃亡。城には尚州判官権吉が一人取り残っていたが、一兵もいなかった。李鎰は、結局、900-6000名 程度の農民を集めて即席の軍隊を造らざるを得ず、24日、城外で練兵中に敵襲を受け、包囲攻撃されて壊滅した。李鎰(巡察使)は衣服を脱ぎ捨て裸で逃走、金澥(尚州牧使)も逃走、倭学通事(通訳)景応舜が捕虜となり、李慶流(防禦使兼兵曹佐郎)、権吉(尚州判官)、朴篪(校理)、尹暹(校理)ら諸将が戦死した。 詳細は「尚州の戦い」を参照 漢城府を出立した申砬は、忠清道で8,000-100,000名を招集して、4月26日、丹山駅に軍を進めた。しかし鳥嶺を偵察し、この要害地は騎兵の使用に適さないという理由で放棄して、忠州へ後退した。4月27日に無人の鳥嶺を突破した一番隊は安保駅から丹山駅に至った。4月28日、申砬は忠州城より出て、漢江に面した弾琴台に陣をしいた。小西行長らは偵察でこれを知り、三方から攻撃した。朝鮮軍は大敗し壊滅、敗れた申砬は、馬で川に入って自決し、李宗張(忠州牧使・助防将)とその息子の李希立、金汝岉(前義州牧使・副使)、邊璣(助防将)ら諸将も乱戦の中で戦死した。この日、忠州城も陥落した。柳成龍の懲毖録によれば、宮廷では来る日も来る日も申砬の勝報を待っていたという。 詳細は「忠州の戦い」を参照 一方、三番隊の黒田長政は昌原城を攻略して首級500を挙げて北上し、昌寧、玄風を経て、4月24日に星州に達し、金山を経て、秋風嶺を越えようとしているところで、4月28日、趙儆(右防禦使)と李睟光(従事官)ほか別将鄭起龍、黄潤、義兵張智賢の連合軍が立ち塞がって交戦したが、撃破した。趙儆らは黄澗に後退、張智賢は戦死した。三番隊はこれを追って忠清道に入り、青山を経由して(5月3日頃)清州を占領した。
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