慶尚道制圧とは? わかりやすく解説

慶尚道制圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「慶尚道制圧」の解説

4月17日日本軍二番隊三番隊四番隊島津隊は遅参)が相次いで釜山上陸した。早速、二番隊陸路海路梁山蔚山向かい三番隊そのまま廻航して洛東江河口竹島竹林洞)に着いた17日午後小西行長松浦鎮信隊は院(じゃくいん)に迫った密陽府使晋は兵を集めて洛東江左岸雲門山地が迫る院関の隘路待ち伏せ初め野戦迎え撃ち日本軍の進撃阻止しようとした。しかし、日本軍斥候がこの敵兵発見二手分かれ行長八代衆が正面から攻撃する間に、鎮信の平戸鉄砲衆右側面に回り込み山手から狙い撃った朝鮮軍伏兵驚き散々撃たれ遁走した。日本軍追撃して300名余を討ち取った晋は密陽戻り兵器倉庫火を放つと城を捨てて山中逃れた詳細は「鵲院関の戦い」を参照 他方李玨山駅の陣を引き払って兵営城に戻り、まず自分の妾と綿布税金代わりに徴収するもの)財産後方送った。町は恐慌状態で、住民を斬って鎮撫しようしたが無駄だった城内戦々恐々としており、敵襲誤報が日に何度もあった。李玨は暁に乗じて一人逃げ去ったので彼の軍は崩壊した4月18日小西行長密陽占領した。同じ頃、漢城府一番乗りの功を争っていた加藤清正二番隊)は梁山達した行長密陽から清道大邱尚州に進む中路を取ると伝え聞いた清正は、自らは東路を取ることにして道を転じ翌日、彦陽を占領した4月19日三番隊黒田長政大友吉統海路から安骨浦を攻撃した朝鮮軍も港から軍船出して迎撃し、初め海戦発生した。しかし、日本軍押し返して5隻を奪い上陸して城に迫った金海府使徐礼元は金海城の城門閉ざして抗戦したが、日本軍城外刈って堀に投げ入れ埋め立て城壁をにじり上った。これを見た草渓郡惟倹 が西門開けて逃亡し、それを見た朝鮮城兵持ち場捨てて逃げ出したので、止む無く徐礼元も城を脱出して晋州落ち延びた。城はたちまち日本軍の占領することとなり、日本軍が斬った首は数千といわれる詳細は「金海城の戦い」を参照 また同じ日、六番隊の小早川隆景釜山上陸五月上旬後続上陸完了するまで同地にあったまた、二番隊加藤清正鍋島直茂連名長束正家秀吉側近奉行衆対し現地豊富に兵粮蓄えられていること、小西行長協議しながら別経路漢城目指したいと報告している。 他方漢城府では、左議政吏曹判書を兼任する柳成龍が、自身都体察使に、兵曹判書に腹心の金応南(都体察副使兼任)を任命して募兵体制強化した。また申砬呼び、策を請うた。申砬は「御身武人ではない。此の際は只速やかに鎰の後援として、他の猛将続発せしむべし」 と言い暗に自分推挙したので、柳成龍国王上奏して申砬三道巡察使慶尚道忠清道全羅道三道陸軍統括する官職)に任命した申砬名将として誉れ高かったが、人殺し評判でも恐れられ一緒に従軍するのを忌避されるほどに人望がなかった。そこで柳成龍集めた部下連れていくこととなり、宣祖鎰以下誰でも命令従わぬものはこれで斬れと剣を授けて送り出した4月20日二番隊加藤清正鍋島直茂慶州城を攻撃した朝鮮城兵は弓で抗戦したが、新任慶州府尹邊応星はまだ到着しておらず、次官である慶州判官毅長は敵の猛攻恐怖駆られて逃亡。これで城兵大混乱に陥り、城内乱入した日本軍1500余の首を取った。(慶州城の戦い小西行長4月20日大邱城を占領し22日に仁同城を占領。金睟(慶尚道巡察使)は「制勝方略という事計画従い聞慶以下周辺守令飛ばし民を避難させ、大邱軍兵集結させ待機していた。ところが、日本軍急速な進撃前に招集されたばかり朝鮮将兵動揺し、夜の間に脱走して戦う前に軍は潰散してしまった。これによって慶尚道中路を守る部隊がいなくなった行長は、23日浅瀬洛東江渡って善山に至った。同じ日、鎰は尚州城に入ったが、尚州牧使金澥は、出迎え口実に城を出てそのまま逃亡。城には尚州判官権吉一人取り残っていたが、一兵もいなかった。鎰は、結局、900-6000名 程度農民集めて即席軍隊を造らざるを得ず24日城外練兵中に敵襲を受け、包囲攻撃されて壊滅した鎰(巡察使)は衣服脱ぎ捨て裸で逃走、金澥(尚州牧使)も逃走倭学通事通訳)景応舜が捕虜となり、李慶流(防禦使兼兵曹佐郎)、権吉尚州判官)、篪(校理)、尹暹(校理)ら諸将戦死した詳細は「尚州の戦い」を参照 漢城府出立した申砬は、忠清道で8,000-100,000名を招集して、4月26日、丹山駅に軍を進めた。しかし嶺を偵察し、この要害地は騎兵使用適さないという理由放棄して忠州後退した4月27日無人嶺を突破した一番隊安保駅から丹山駅至った4月28日申砬忠州城より出て漢江面した弾琴台に陣をしいた。小西行長らは偵察でこれを知り三方から攻撃した朝鮮軍大敗し壊滅敗れた申砬は、馬で川に入って自決し宗張(忠州牧使・助防将)とその息子李希立、金汝岉(前義州牧使・副使)、邊璣(助防将)ら諸将乱戦の中で戦死した。この日、忠州城も陥落した柳成龍懲毖録によれば宮廷では来る日も来る日も申砬勝報待っていたという。 詳細は「忠州の戦い」を参照 一方三番隊黒田長政昌原城を攻略し首級500挙げて北上し昌寧、玄風を経て4月24日星州達し金山経て秋風嶺越えようとしているところで、4月28日、趙儆(右防禦使)と睟光(従事官)ほか別将鄭起龍、黄潤、義兵張智賢の連合軍が立ち塞がって交戦したが、撃破した。趙儆らは黄澗に後退、張智賢は戦死した三番隊はこれを追って忠清道入り青山経由して5月3日頃)清州占領した

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