慶尚道と七番隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
6月5日 茂渓の戦い。前僉使で武勇の人と言われる孫仁甲率いる朝鮮軍が毛利勢の村上景親が守る茂渓の砦を攻めたが、日本軍が奮戦して撃退し、さらに追撃し数百人を倒した。 6月5日 醴泉の戦い。毛利の武将吉川広家の兵が、醴泉に集まった朝鮮義兵数千を攻撃し撃退した。このころ、安国寺恵瓊らの1,500の日本軍が咸安方面から宜寧に入ろうとしていたが、郭再祐は鼎津に兵を置いて渡河を阻んだ。日本軍は渡ることができず引き揚げた(鼎津の戦い)。 5月、亀井茲矩の軍は泗川付近に上陸し、泗川城を攻略し、さらに昆陽城と河東城を攻略した。朝鮮軍の金時敏は、1千の兵で泗川城に近づいたが、日本軍の守備が厳重なのを見て、攻撃を止めた。その後、亀井茲矩の軍は日本軍上層部の命令で機張城に移った。朝鮮の官僚の金誠一は、日本軍の撤退を金時敏の功績として朝鮮朝廷に報告したので、朝鮮国王は金時敏を晋州牧使に任じた。 11月 機張城の戦い。数千の朝鮮軍義兵が機張城に攻め寄せたが、日本軍はこれを撃退し、800の首を得た。 8月7日 善山・仁同の戦い。細川忠興・長谷川秀一・木村重茲らが率いる1万2000日本軍が、善山に立て篭もっていた朝鮮軍義兵を掃討した。その後、南条元清と合流して、仁同の朝鮮軍義兵の根拠地を撃破した。 8月20日 第1次星州城の戦い。朝鮮軍数千人が毛利勢の依る星州城をとり囲む。開寧で報告を受けた毛利輝元はすぐに援軍を送り、朝鮮軍は側背を衝かれて撤退した。 9月10日 第2次星州城の戦い。兵を集めた15,000の朝鮮軍が再び毛利勢の依る星州城に迫り、毛利輝元の武将らが救援に駆けつけた。毛利の武将は金泉駅で朝鮮軍を破った。さらに日本軍は知礼城を攻め落して帰還した(知礼城の戦い)。 9月23-26日、昌原の戦い。細川忠興・長谷川秀一・木村重茲ら2万の日本軍が金海から晋州城に向かう途中、昌原城から出撃して露峴で迎撃にあたった慶尚右兵使・柳崇仁ら数千の朝鮮軍を撃破し、三日後には昌原城を攻め落して1千4百人を討ち取った。柳崇仁は逃走し咸安を守ったが、10月1日、日本軍はこれも攻略し、柳崇仁は晋州方面へ逃げ延びた。敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使・金時敏は日本軍の突入を怖れて城門を開くことを拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。 10月6-10日、晋州城の戦い(第一次晋州城攻防戦)。日本軍は、釜山西方の制圧を画策して、晋州城の攻略を図る(細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)が、朝鮮軍が防衛に成功した。朝鮮軍指揮官金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負い、攻防戦の後に傷の悪化によって死亡した。 12月7-14日、第三次星州城の戦い。金沔率いる5,000の朝鮮軍が星州城を包囲するが、日本軍に撃退される。
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