強制排除後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 23:37 UTC 版)
「2013年エジプトクーデター」の記事における「強制排除後の動き」の解説
8月16日には、外出禁止令に反する形で、ムスリム同胞団などが抗議デモ「怒りの金曜日」をエジプト各地で開催。17日には、カイロ中心部のアル・ファタハ・モスクに立てこもる武装したデモ参加者が反同胞団系の市民に発砲、反モルシ派市民が、モスクから遺体を運び出そうとしたデモ参加者を襲撃するなど現場が混乱する中、投降を呼びかけた治安部隊との間で銃撃戦となり排除された。モスクからモルシ派が排除されると、見守っていた群衆から歓声が上がったほか、モルシ派に襲いかかる市民も発生した が、カイロ県は、2012年の新憲法案に対する国民投票で全国的に殆どの県で賛成票が多数となる中、反対票が賛成票を約30万票も上回って反対票の比率が56.9%にのぼるなど、元々同胞団支持が弱い地域である点に留意する必要がある。混乱の拡大により、ムスリム同胞団に対する市民の反感が高まり、各地で自警団や独自の検問所の設置・運営、さらには市民によるデモ隊への銃撃も行われた。 また、8月14日夜から15日の間に、紀元前14世紀の一時期に首都となっていたアマルナの対岸にあるミニヤー県のマラウィ国立博物館が襲撃を受けた。エジプト考古省によると、この襲撃により警備員が射殺されたほか、古代エジプトの石像やコイン、ミイラ、木棺など収蔵品1089点のうち1040点が強奪され、残された像なども損壊したとされる。アハマド・シャラフエジプト考古省博物館局長は、「博物館が丸ごと略奪されたのは歴史上例がない。エジプトの歴史と文明を破壊する行為だ。」と非難した。 暫定内閣の発表によると、16日から17日までにかけての混乱により173人が死亡、ムスリム同胞団関係者1004人が逮捕された。18日には拘束されていたムスリム同胞団メンバー36名が脱獄を試みた際、死亡したと内務省が発表した が、10月22日、検察の捜査官は、脱獄を試みた事実はないとし、この件に関わる警察官4人を捜査するため拘束した。 19日には、エジプト東部のシナイ半島で、治安部隊25人が武装勢力の襲撃を受け死亡した。 エジプト国内には、アラブの春により生じた2011年リビア内戦の際にリビアに集まった武器が、その後のリビア民主化に伴う政情不安定化により、闇市場を通じ流れてきているとされる。ムスリム同胞団幹部は、ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどを通じて武器の持ち込みや警察官への襲撃をやめるよう呼びかけ、武装したデモ参加者は同胞団に従っていない者であり、治安部隊や教会への襲撃は「我々に責任をなすりつけるための治安当局の陰謀だ。」と主張しており、インターネット上では内務省施設への襲撃の呼びかけも行っているなどという指摘があるが、自由公正党の幹部は、コプトや教会に対する攻撃を繰り返し批判している。一方で、同胞団の統制が弱まっていることも指摘されている。メディアでは、エジプト国営テレビでデモ参加者がカイロ中心部でAK-47を発射している映像が流されるなど、デモ隊が機関銃などで武装しているとの報道や、デモ隊による警察署などの政府施設や病院、コプト正教会教会、コプト系の学校や企業、ホテルへの襲撃、警察官や治安部隊兵士、キリスト教徒に対する殺害行為が行われているとの報道がなされた。特に、エジプト東部のシナイ半島では、ムルシー解任に反発するジハード主義勢力の活動が活発化し、空港やバス、警察署、軍の検問所や基地、コプト教会などへの攻撃が相次ぎ、隣国イスラエルに対するロケット攻撃がなされたことも確認された。ただし、殆どのエジプトの報道機関は、ムルシー支持派弾圧を「テロ対策」と正当化する暫定政権寄りの報道を行っている、と指摘されている点に留意する必要がある。また、報道規制に関してはムルシー政権期より悪化しているとの指摘もある。17日には潘基文国際連合事務総長から事務総長報道官を通じ、コプト教会や病院などの公共施設が襲撃されたことに対しての非難声明が出された。 なお、暫定政府や現地の殆どのメディア、一部のエジプト国民などはムルシ派のデモ隊をテロリストとしているが、デモ参加者には国際テロ組織アルカーイダの旗を振る者がおり、16日から17日にかけて逮捕された1004人の逮捕者の中にも、治安部隊への銃撃に関わったとされギーザの検問所で逮捕されたアルカーイダ最高指導者アイマン・ザワーヒリーの弟でサラフィー主義団体指導者のムハンマド・ザワーヒリーが含まれていた。ザワーヒリーは、ムバラク政権下で収監されていたものを、エジプト革命後のムルシー政権下で恩赦による釈放を受けており、ムスリム同胞団と深く関係しているとされる。ただし、弟と異なりアイマン・ザワーヒリーは同胞団に対して「偽イスラムの臆病者」と批判する など反同胞団の立場の人物であり、アルカーイダと同胞団は対立関係にある。 強制排除以降ジハード主義勢力による攻撃が激化しているシナイ半島北部は、ムスリム同胞団を母体とするハマースが支配するガザ地区に接しており、同地のジハード主義勢力とムスリム同胞団の関係がかねてより疑われているが、ムスリム同胞団は関係を否定している。 暫定政権は、同胞団などイスラーム勢力に対する締め付けを強めており、憲法改正草案には宗教政党の禁止を盛り込んだ。一方で、2011年の「アラブの春」により辞任に追い込まれたムバーラク元大統領は22日、保釈が認められ、刑務所から軍の病院へ移った。ムバーラク保釈に対しては、同胞団などイスラーム勢力のみならず、2011年の革命につながるデモを主導した若者グループ「4月6日運動」なども反発している。 23日、ムルシー支持派は「殉教者の金曜」と称するデモを呼びかけたが、これまでのような規模には広がらなかった。 その後も同胞団関係者の拘束が続けられており、28日にはハイラト・シャーテルの息子が、翌29日にはギーザ県で幹部のムハンマド・ベルタギーらが拘束された。 30日にもエジプト各地でムルシー支持派のデモが行われた。先週23日より規模は大きかったものの、予測ほど拡大しなかったと指摘されている。なお、治安部隊とデモ隊の衝突で全土で少なくとも7人が死亡した。
※この「強制排除後の動き」の解説は、「2013年エジプトクーデター」の解説の一部です。
「強制排除後の動き」を含む「2013年エジプトクーデター」の記事については、「2013年エジプトクーデター」の概要を参照ください。
- 強制排除後の動きのページへのリンク