強制捜査から麻原逮捕まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:10 UTC 版)
「オウム真理教の歴史」の記事における「強制捜査から麻原逮捕まで」の解説
「オウム真理教事件」を参照 いずれにせよ強制捜査延期には至らず、事件2日後の1995年(平成7年)3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)を中心とした教団本部施設への一斉捜索が行なわれた。サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のためのヘリコプター、衰弱状態の信者50人以上等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。また、富士山総本部の金庫から7億4600万円と金の延べ板10キロが見つかった。 翌日の3月23日に滋賀県安土町で逮捕された信者の車からは、信者名簿、教団の科学技術者名簿、暗号放送、自動小銃、サリン自動噴霧装置、火炎放射器、ロシアプラズマ兵器、ジェット戦闘機、水爆、トリウム爆弾、原子炉用レーザー技術、三菱重工業のCOレーザーなどのデータや設計図、各企業の特許技術データが入ったMOディスクが発見され、印刷すると200万ページを超えるこれらの資料は教団の武装化を裏付けるものだった。 以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕された。 強制捜査の際、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」「警察官の動きをビデオや写真に撮る」という光景が見られた。また報道陣に対してもしつこくカメラを向け、突然の捜索に驚き慌てる様子は全くなく、事前に準備され訓練された行動のようであった。実際に弁護士で信者の青山吉伸から「絶対に警察の手に渡ってはいけない違法なものに限り持ち出し、露骨な持ち出しをしないように」「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」「施設の電源を落とす」「内鍵をして立て篭る」「勝手に触ると修法が台なしになると主張する、ほとんどのものを修法されているとする」という通達と、警察との想定問答が極秘に出されていた。もちろんこれは刑法104条の証拠隠滅罪に該当する。オウムの犯罪行為は一部の信者以外には秘密であったうえ、「オウムは米軍に毒ガス攻撃されている被害者」「不殺生戒を守り虫も殺さぬオウム信徒が殺人をするはずがない」と教わっていたため、事件を陰謀と考える信者の抵抗は大きかった。 強制捜査後、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、サリンはつくっていないなどと潔白を主張した。一部の幹部は逃走し、八王子市方面に逃げた井上嘉浩、中川智正らのグループは村井秀夫から捜査撹乱を指示され、4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、その村井秀夫は1995年4月23日に東京南青山総本部前に集まった報道陣を前にして刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。 この他、4月15日予言などオウムに関するデマも飛び交った。同年3月30日には警察庁長官狙撃事件が発生し、オウムの関与が疑われたが、2010年に公訴時効が到来した。同年4月19日には、教団とは無関係の模倣犯による横浜駅異臭事件が発生したが、異臭原因物質は不明だった。 また、事件後の95年4月に出版された著書で麻原は自分のポリシーは社会党に近く、村山富市首相に期待すると述べ、ときの首相に言を弄した。逮捕直前の95年5月中旬頃、麻原は「私の身に何が起きても決して動揺しないように」と尊師通達を出し、一部の弟子には「私は逮捕されるだろう。しかし、1年か2年、長くても3年以内に釈放されるだろう」と予言した。 1995年5月16日には再び、自衛隊の応援を得て付近住民を避難させた上で、カナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。また、証拠品の押収や、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。 [先頭へ戻る]
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