少女スターとしての成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:37 UTC 版)
「シャーリー・テンプル」の記事における「少女スターとしての成功」の解説
『可愛いマーカちゃん』(Little Miss Marker・1934年・日本未公開)のころのこと。両親とホテルに滞在していると紳士が近づいてきて、この街のカトリック教信者を代表する者だと名乗り、シャーリーにメダルをあげましょうと声をかけた。シャーリーはおもちゃのメダルを集めていて、ほしいと答えると男性は彼女を抱き上げてホテルの大広間へと入っていく。両親とフォックスフィルム社の広報担当が止める間もなく、数千人の信者が集まる会場のまんなかをぬけると、シャーリーを連れてステージにあがりメダルを授与した男性は、何か挨拶をしてほしいと頼んだという。 両親もフォックスの担当者も真っ青である。まだ有名になるかならないかのときでもあり、こんな時どうふるまえばいいか誰も教えていない。たった5歳の子供になにができるだろうかと固唾を飲んで見守るほかなかった。すると、笑顔でメダルのお礼をして「大会が成功しますように」と述べ、「皆さんが大好きです」と投げキスで結んだという。心に浮かんだままをしゃべったこの言葉に、大きな拍手が鳴り止まなかった。両親はホッと胸をなでおろし、ステージから降りるところを待ち構えていた担当者は感に堪えないようすで「君に教えなきゃならないことはもう何もない。いつだって自分をそのまま出せばいいよ」と言った。こうしてシャーリーはどんな時にも自然な自分を出すことで、アメリカのファンに感動を与え続けた。 そのころ受け取ったファンレターは週に4000通以上。同じ時期、アメリカで最もファンレターの多いスターである。たちまち週1万通を超えるとフォックス社はフルタイムの専属秘書を10人付けている。サインを求められることも多く、あるクリスマスの時期に母親とデパートに行ったところ、アルバイトのサンタクロースがサインをほしがったという。サンタクロースはほんとうにいると信じていたのに、このときからそう思わなくなったと後に語っている。 『可愛いマーカちゃん』公開の翌年、映画界であげた功績に対してアカデミー賞特別賞を受賞。初のトーキー映画を公開したワーナー・ブラザース、チャーリー・チャップリン、ウォルト・ディズニーについで4番目である。シャーリーはこのとき6歳、アカデミー賞のすべての分野における最年少記録は2015年現在も破られていない。午前1時半過ぎにようやく授賞の番がめぐってくると、大人でも仕事の疲れで眠いはずであるが、にこやかに受賞の挨拶を済ませている。ところがステージから降りて母親に「ママ、もう帰っていいの?」とささやいた声がマイクに拾われて会場に大きな音で流れてしまった。会場は爆笑に包まれ、やがてこんなに幼い女の子が疲れや眠気を全く表に出さないことをたたえて拍手喝采を送った。 母のガートルードは映画デビューした娘にぴったりとつきそい、「映画界の悪い影響」を受けないように守った。フォックス・フィルム社も同じく保護が必要だと認め、撮影所内に専用の家とおもちゃを用意している。会社は他の子役や裏方と遊ぶことを禁じた。法律上、1日4時間しか働かせてはならないため仕事に専念させたがり、切実な事情として西部劇のウィル・ロジャースの事故死で看板俳優を失ったことからシャーリー・テンプル一人に社運を託すほかはなく、子役や裏方と遊ぶうちに病気や怪我をしないかとひどく用心した。成功をねたんだ他の子役の母親が硫酸を顔にあびせようとしたり、毒入りのキャンディーを送りつけたりしてからはなおさらである。『輝く瞳』で共演した子役のジェーン・ウィザースとも友だち付き合いはなかった。撮影のとき、毎日シャーリーが彼女に物真似でからかわれ、撮影の本番では台詞を先回りして横で大声で言われ、とても演技がやりにくかったという理由による。ディック・モーア『ハリウッドのピーターパンたち』の中でジェーンは、シャーリーの母親のせいで共演は二度となかったと述べているが事実ではなかったらしく、1985年に全米に放送されたテレビ番組で自ら訂正した。 撮影所では仕事が4時間、勉強が3時間。1時間の昼休みにさえ名士の訪問を受けることもしばしばだった。帰宅は毎日4時か5時ごろで夕食まで近所の子供たちと遊び、最も親しかったのはナンシー・メジャーズ。夕食後はごく普通に遊んだりラジオを聴いたり、家のお手伝いをしたりして、寝る前には必ず次の日の撮影の準備である。母ガートルードも会社も他の早熟な子役から悪い影響を受けて「品行方正な子供」というイメージに傷がつかないように心を配り、彼女は大人に守られ明るく品行方正に育った。 フォックス・フィルム社は20世紀映画会社と合併、1935年から20世紀フォックス となる。合併祝賀パーティの席上、ある脚本家が6歳のシャーリーを抱いて「高い高い」をしたところ、パーティの出席者全員、怪我をさせるのではと恐怖で凍りついた。そのとき両手で高く差し上げている少女は会社の全財産にも等しいと気づくと、脚本家は恐ろしさにめまいを起こしてあやうく彼女を取り落としそうになったという。 看板俳優の座をついだシャーリーにはスタンドインが付き、マリリン・グラナス (Marilyn Granas) やメリー・ルー・イズライブ (Mary Lou Isleib) 等が務めた。初期の担当だったマリリンは1歳年上、以前にベビー・バーレスク作品(The Kid's Last FightやKid in Hollywoodほか)で競演した仲である。『ベビイお目見得』(Baby Take a Bow・1934年)や『輝く瞳』ほかのスタンドインを務め、やがてキャスティング・ディレクターに転身。メリー・ルー・イズライブはマリリンの後に付き、撮影所では他の子役から離されたシャーリーにとってただのスタンドインではなく、学友であり親友でもある。シャーリーは小学校入学の年齢になっても通学はせず、20世紀フォックスの撮影所で専任の家庭教師を付けられて数学年上の授業内容を勉強したという。6歳のときの知能検査でIQは10歳相当。12歳では155以上、「天才」の範疇に分類される評価である。 子役の少女は成長するとマーガレット・オブライエンやナタリー・ウッド、テータム・オニールのようにどこか影のある子供あるいはブルック・シールズやジョディ・フォスターなど妖艶さが売り物という性格づけがされる。しかしシャーリー・テンプルは20世紀のアメリカ映画唯一の大物少女スターとして、どこまでも純粋で無邪気で明るく、子どもらしい子どもを演じつづけた。
※この「少女スターとしての成功」の解説は、「シャーリー・テンプル」の解説の一部です。
「少女スターとしての成功」を含む「シャーリー・テンプル」の記事については、「シャーリー・テンプル」の概要を参照ください。
- 少女スターとしての成功のページへのリンク