小沢グループとの党内対立
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「2010年9月民主党代表選挙」も参照 鳩山の後任を決める2010年6月の民主党代表選挙において菅が出馬表明すると小沢一郎の党運営に不満を持っていた枝野幸男、仙谷由人らが菅支持に回った。小沢グループは菅の対抗馬として樽床伸二を擁立した。菅は樽床に勝利し、反小沢の急先鋒ともいわれた枝野、仙谷をそれぞれ党幹事長、官房長官に起用、小沢の意向により廃止された政策調査会を復活させた。また小沢、鳩山代表時代に作成されたマニフェストの一部修正にも取りかかった。こうして政権交代の原動力とも言われたトロイカ体制は崩壊し、メディアから"脱小沢"と称される路線に傾いていくこととなる。こうした動きを世論はおおむね評価し、内閣支持率は約60%という高水準で内閣は発足した。 しかし、就任してまもなく自由民主党の案を参考にして消費税増税(およびそれを財源にした法人税減税)を含む税制改革を打ち出したため、中小企業や自営業者を切り捨てるものであるとの批判を浴び、発言が二転三転した。この影響もあってか、7月11日投開票の第22回参議院議員通常選挙で、民主党の獲得議席は現有の54議席を大きく下回る44議席にとどまった。この結果、参議院で過半数を失うねじれ状態にとなり、菅の党内における求心力は低下した。9月の党代表選に向け、菅は再選に意欲をみせるが、小沢に近い議員グループを中心に党執行部の参院選敗退の責任を問う声が強まり、小沢擁立の動きも加速した。 こうした中、党の分裂を懸念した前首相の鳩山由紀夫が仲介に乗り出す。鳩山は菅に小沢の出馬見送りと引き換えに枝野幹事長、仙谷官房長官の更迭や小沢の要職での起用、トロイカ体制に輿石参院会長を加えた「トロイカ+1」体制の構築などを菅に要請し、告示直前まで調整が行われたが、菅は密室談合を懸念し両者折り合わず、最後に菅-小沢会談が行われたが、結局物別れに終わった。鳩山はこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。これを受け小沢は告示日である9月1日に出馬表明し、代表選での菅との直接対決に突入した。この代表選において菅は金銭問題が取りざたされる小沢を意識し、クリーンでオープンな党運営や雇用政策の重視を主張し、一方の小沢は衆議院総選挙での2009マニフェストの順守、地方への紐付き補助金の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張した。 小沢の出馬表明当初は党内最大グループを率い、鳩山グループの支持を取り付けた小沢が国会議員票では優勢との見方もあった が、菅は世論調査で小沢を上回る支持を得たことを背景に攻勢を強め、9月14日に国会議員による投開票が行われた結果、小沢を下し再選を果たした。 9月17日、菅改造内閣発足。内閣改造人事では、仙谷官房長官は留任、枝野の後任の幹事長に外相の岡田克也、岡田の後任の外相に前原誠司を充てるなど非小沢系が要職に起用され、「脱小沢」を強化した が、副大臣・政務官人事では小沢グループからも多数起用し、党内融和に一定の配慮を示したとも見られている。 この代表選で再選したことにより内閣支持率は回復するが、代表選期間中に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応が迷走したことなどにより支持率は再び低下に転じた。前原誠司元外相によれば、民主党政権は処分保留による船長釈放を「検察独自の判断」と強調し、政治的判断による釈放を否定してきたが、実際は当時首相だった菅直人が、アジア太平洋経済協力会議首脳会議があるとして「胡錦濤が来なくなる」「オレがAPECの議長だ。言う通りにしろ」と迫り、逮捕した中国人船長の釈放を指示したという。 また衆院北海道第5区補選(2010年日本の補欠選挙)や、大型地方選(福岡市長選挙、和歌山県知事選挙、茨城県議会議員選挙)で連敗。統一地方選を翌年春に控えた民主党内の不満が高まっていった。こうした中、2011年1月14日、菅は内閣改造を行い、菅第2次改造内閣が発足。しかし、政権の低迷は続き、3月6日、前原誠司が外国籍の人物から違法献金を受けていた件で外務大臣を辞職した直後の2011年3月11日、菅自身にも外国人献金問題(後述)が持ち上がった。
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