地下鉄建設と開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 18:37 UTC 版)
「早川徳次 (東京地下鉄道)」の記事における「地下鉄建設と開業」の解説
早川は大正3年(1914年)に国際事情視察の為、欧州を訪問し、イギリスのロンドンにおいて地下鉄が発達しているのを目の当たりにし、また同国のグラスゴーではゆとりを持った乗車(乗車できるのは座席数に加えて4人まで)が実際に行われているのに衝撃を受け、これからは東京にも地下鉄が必要だと考えるようになる。 初めは公共交通として鉄道省や自治体に建設を働きかけたものの、早川の先見性は理解されなかった。東京の軟弱な地盤の地下に構造物を建設することについて、技術的・資金的に無理だと判断されたことや、事業として成り立つか不透明であったことが要因だった。やむを得ず私営での建設を決意し働きかけるも、同様に理解はほとんど得られなかったが、数少ない理解者に後藤新平や、大隈重信ら早稲田系の人脈、渋沢栄一がいる。 早川は東京市橋梁課の地層図を取得し、東京の軟弱な地盤は地表から210メートルから240メートル程度に過ぎず、その下には固い地層があることを確証する。また、早川は豆を使った交通量調査を行い、その結果から事業として十分成り立つことなどを説得材料に、苦労を重ね少しずつ賛同者を募り投資家や金融機関への粘り強い説得を行った。 1919年(大正8年)11月17日にはついに鉄道院から地下鉄道免許を「東京軽便地下鉄道」として取得し(この免許の条文に『東京市が地下鉄を買い取る時には、それを拒めない』という文言があった)、大正9年(1920年)8月29日に創立総会が紛糾する場面があったものの、東京地下鉄道株式会社を設立する。社長には工学博士の古市公威が就任し、取締役には根津も名を連ね、早川は常務取締役に就いた。大正14年(1925年)9月27日に浅草 - 上野の地下鉄工事を開始する。 1924年には野村龍太郎が二代社長となり、早川は専務取締役になっている。1923年(大正12年)に発生した関東大震災の影響も受け、建設工事も難工事の連続で何度も事故が起きたりするなど数々の困難を乗り越え、昭和2年(1927年)12月30日に浅草駅から上野駅まで開業させた。現在の東京メトロ銀座線の同区間である。 ようやく開通した浅草駅 - 上野駅間につづき、順次路線延長を進めていく。資金繰りが決して順調に行かない時でも安全を第一に考え、全鋼・難燃化車輌の導入、警戒色を示す車体色(オレンジ色)の採用、打子式ATSの導入を行い、さらに将来の輸送量増加に備え6両編成での運転に対応した設備を整えたり、社員の教育の充実など積極的に推進した。 一方で、小林一三率いる阪神急行電鉄を手本に駅の出入口にビルを建て、その中や地下鉄構内に店舗を配置して収入を増やしたり、定期券利用の通勤客向けに新聞の夕刊を駅入場時に受け取れるサービスを発案したり、デパートの直近にルートを取り、駅とデパートを直接出入りできるように建設する代わりにそのデパートから建設費用を出してもらうようにするなど、営業・経理面でも様々な方面で手腕を発揮した。 さらに郊外へ伸びる他の鉄道線への乗り入れも視野に入れたりする(新橋から現在の都営地下鉄浅草線のルートで品川へ至り、京浜電気鉄道への乗り入れをする考えを持っていた)など、随所に先見性の高さを見せていた。その後、東京地下鉄道は新橋駅まで延伸した。 早川は職員教育・福利厚生にも力を入れ、1938年(昭和13年)4月には神奈川県逗子に研修施設「聖智寮」を開設する。聖智寮の設計は早川と同郷で甲府中学出身の建築家・内藤多仲が務めた。また早川は、野球大会などの福利厚生イベントには欠かさず顔を出し、社員と記念写真に納まった。早川は自著「社員讀本」において「凡(およ)そ如何(いか)なる世にも、仕事をするに大切なるものは人である」と述べ、社員を大切にする考えを持ち実践していた。 東京地下鉄道は1932年から根津嘉一郎が3代社長に就任し、1940年には早川自身が4代社長となる。
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