国営の大規模灌漑整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:36 UTC 版)
明治以降、最上川沿岸の農業用水確保は欧米の先端技術を早くから取り入れて行っていた。端緒となったのは1911年(明治44年)に酒田市遊摺部(ゆするべ)において揚水機場によるポンプ取水が開始された事である。米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社製の揚水機を使ったこの方法で600haの開墾が図られた事により、一挙に最上川流域の農地において揚水機場が各所に設置された。これは扇状地の用水確保が限界に達していた事があり、従来は技術的に難しかった最上川本川からの取水が可能になったことも関係する。だが、揚水機の過剰設置によって今度は河水自体が減少するという皮肉な結果となった。こうした事から溜池よりも大規模な農業用貯水池を建設して水源の確保を図る事が考えられ、1944年(昭和19年)に蛭沢川に蛭沢ダム(蛭沢湖)が建設された。 戦後に入ると、農林省による国営農業水利事業が1947年(昭和22年)より全国的に展開され、山形県内においても総合的な灌漑整備事業が展開される事となった。その第一弾は山形県による河川総合開発事業「野川総合開発事業」であって管野・木地山ダムによって長井市の最上川左岸部・置賜野川流域で600haに及ぶ新規開墾が図られた。以降、農林省や山形県による農業水利事業、かんがい排水事業が実施されていく。 米沢盆地においては「国営米沢平野農業水利事業」が行われ、水源として水窪ダム(刈安川)が1971年(昭和46年)に建設され1982年(昭和57年)に完了している。新庄盆地では1952年より「国営泉田川農業水利事業」が行われ、1963年(昭和38年)に桝沢ダム(桝沢川)が完成して水源が確保され、1967年に完了している。同年には山形県によって「諏訪堰農業水利事業』が完成し、1615年(慶長20年)に山形藩]より建設された諏訪堰を改良して取水量を増加させる事業が行われた。更に村山地方においては「国営村山北部農業水利事業」が進められ、山形県の農業用ダムとしては最大規模の新鶴子ダムが丹生川に1990年に完成し、ダム、頭首工、用水路、揚水機場といった設備の連携によって効率的な農業用水供給が図られた。 庄内平野では1968年(昭和43年)より「国営最上川下流右岸農業水利事業」が実施され、上杉景勝の重臣・甘粕景継によって基礎が形成された「最上川疏水」の水源として最上峡最下流部に草薙頭首工が1970年(昭和45年)に完成し、疏水の水源として400年来の悲願が達成された。左岸部についても1612年(慶長17年)に最上義光の重臣・北楯利長が整備した北楯大堰用水路の改築が図られ、最上川頭首工より北楯頭首工を経て最上川左岸部の農地により安定した水供給を行うようになった。だが、河況係数の大きい最上川は日照りになると水量が減少、1973年(昭和48年)、1978年(昭和53年)、1984年(昭和59年)、1985年(昭和60年)の渇水では草薙頭首工や最上川頭首工の取水能力が減衰する程の渇水被害に遭遇。その度に最上川を仮締切して水量を確保しなければならなかった。 この為渇水時にも仮締切をせず、両頭首工への安定した水供給を図る為の施設が必要となった。建設省東北地方建設局は農林水産省東北農政局の「国営最上川下流沿岸農業水利事業」の関連事業として1987年(昭和62年)より「最上川中流堰建設事業」に着手した。この中で河川環境に可能な限り影響を与えず、かつ臨機応変な水量調整を可能にするため、堰の水門はゴムを空気で膨らませて大きさを調節するゴム引布製起伏堰、通称ラバーダム方式を採用する事となった。1989年(平成元年)より6年の歳月を掛け1995年(平成7年)に完成した最上川さみだれ大堰は、日本最大級のラバーダムとして庄内平野両岸の農業用水を安定して供給している。
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