原条約成立までの歴史とは? わかりやすく解説

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原条約成立までの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:11 UTC 版)

文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」の記事における「原条約成立までの歴史」の解説

ベルヌ条約原条約が成立する過程で、フランス果たした役割大きい。 世界初本格的な著作権法としては、英米法採用するイギリス1710年アン法成立している。しかしアン法は、著作権保護対象書物限定していた。つづいて大陸法諸国においてはフランス革命中の1791年および1793年フランスで著作権法初め成立している。フランス1791年法は劇場著作物限定されていたが、1793年法によってあらゆる文章、作曲絵画および図案保護対象追加され1791年法と併存する形をとった。これ以降欧州大陸諸国フランス著作権法概念部分的に導入していくこととなる。 しかしながら19世紀欧州大陸において最も使用頻度が高い言語フランス語であったことから、フランス語著作物フランス国外で海賊版として大量に複製され、それがフランス逆輸入され事態発生した。特に19世紀初頭まではベルギーブリュッセル海賊行為拠点であり、フランス著作者ベルギーのほか、オランダスイスドイツ海賊版から被害受けたまた、英語圏イギリスでも、英語著作物アメリカ合衆国無断無償流通し著作者印税ライセンス料入らない事態発生していたことから、1800年から1860年代までの米国は「海賊版出版時代」(The Great Age of Piracy) と呼ばれていた。つまり、外国著作物海賊版不正行為とは認めていない欧米諸国多かったことから、フランスイギリス著作者が特に被害を受ける状況にあったこうした背景から、フランスはまず二国間条約締結し自国著作者国外保護取り組むことになる。フランスサルジニア (1843年)、イギリス (1851年)、ポルトガル (1851年1866年)、ハノーバー (1851年)、ベルギー (1852年1861年1880年)、スペイン (1853年1880年)、オランダ (1855年1858年)、ドイツ (1883年)、スイス (1864年)、オーストリア (1866年1885年)、デンマーク (1858年1866年)、イタリア (1862年1869年) とそれぞれ二国間条約締結している。しかし二国間条約場合保護水準の低い国、すなわち文化輸入国合わせて締結内容定められるため、保護水準高く文化輸出国であったフランスは、国内比較して国外でフランス著作物保護が十分ではなかった。 たとえば当時一部の国では、自国民が外国著作物発行した場合内国としての保護排除していた。著作権の発生要件または訴訟前提条件として、登録または納本手続を必要とする方式主義採用していた国もあった。翻訳権や、小説劇化といった翻案権認めていない国もあった。またはこれらの権利認めていても、方式主義採用していたことから、実質的に機能しきれていない国があった。翻訳権保護期間も、登録から3か月失効する国もあった。また、出版権認めるが、発行物上演権演奏権留保する表示してない場合他者無断上演演奏できた国もある。新聞他者複製する自由が一部では認められていた。そもそも各国権利保護期間にもバラつきがあり、国際的な統一必要性があった。 こうした中、著作権国際的な保護協議すべく、1858年9月に「文学的美術的所有権会議」がブリュッセル非公式に開催された。さらに、1878年パリ万国博覧会契機に、フランス政府呼びかけによって各国学者美術家文学者出版業界代表者集まり著作権に関する会合持たれた。この会合結果フランス文豪であり政治家でもあったヴィクトル・ユーゴー名誉会長とした国際文芸協会 (後の国際著作権法学会 (略称: ALAI)) が創設された。また、のちのベルヌ条約として具現化することとなる国際条約起草締結必要性を、当会合からフランス政府要請することとなったその後国際文芸協会による1883年9月会合で、内国民待遇遡及効盛り込んだ条約案が採択された。 これ以降は、各国政府による公式な外交協議へと移った第1回ベルヌ公式会議 (1884年9月)、および第2回ベルヌ公式会議 (1885年9月)を経て第3回ベルヌ公式会議 (1886年9月) でベルヌ条約条文固まり10か国が調印し、うち8か国が批准して翌年1887年12月7日ベルヌ条約発効したベルヌ条約の原署名国はベルギーフランスドイツイギリスハイチイタリアスペインスイスチュニジアリベリア10か国 (うちリベリアハイチ署名のみで批准せず) と少ないが、イタリアスペイン植民地にも適用しイギリス植民地および保護国を含むとしたことから、世界広域カバーした国際条約成立であった。 なお、ロシアベルヌ条約枠組取り入れよう何度も試みたが、失敗終わっている。当時ロシアは、多国間条約であるベルヌ条約だけでなく、文学的所有権に関するすべての条約排除していた。

※この「原条約成立までの歴史」の解説は、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」の解説の一部です。
「原条約成立までの歴史」を含む「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」の記事については、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」の概要を参照ください。

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