原条約成立までの歴史
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「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」の記事における「原条約成立までの歴史」の解説
ベルヌ条約の原条約が成立する過程で、フランスが果たした役割は大きい。 世界初の本格的な著作権法としては、英米法を採用するイギリスで1710年にアン法が成立している。しかしアン法は、著作権保護の対象を書物に限定していた。つづいて大陸法諸国においては、フランス革命中の1791年および1793年にフランスで著作権法が初めて成立している。フランスの1791年法は劇場著作物に限定されていたが、1793年法によってあらゆる文章、作曲、絵画および図案が保護対象に追加され、1791年法と併存する形をとった。これ以降、欧州大陸の諸国はフランス著作権法の概念を部分的に導入していくこととなる。 しかしながら、19世紀の欧州大陸において最も使用頻度が高い言語がフランス語であったことから、フランス語の著作物がフランス国外で海賊版として大量に複製され、それがフランスに逆輸入される事態も発生した。特に19世紀初頭まではベルギーのブリュッセルが海賊行為の拠点であり、フランスの著作者はベルギーのほか、オランダ、スイス、ドイツの海賊版から被害を受けた。また、英語圏のイギリスでも、英語著作物がアメリカ合衆国で無断・無償で流通し、著作者に印税やライセンス料が入らない事態が発生していたことから、1800年から1860年代までの米国は「海賊版出版時代」(The Great Age of Piracy) と呼ばれていた。つまり、外国著作物の海賊版を不正行為とは認めていない欧米諸国が多かったことから、フランスとイギリスの著作者が特に被害を受ける状況にあった。 こうした背景から、フランスはまず二国間条約を締結し、自国著作者の国外保護に取り組むことになる。フランスはサルジニア (1843年)、イギリス (1851年)、ポルトガル (1851年・1866年)、ハノーバー (1851年)、ベルギー (1852年・1861年・1880年)、スペイン (1853年・1880年)、オランダ (1855年・1858年)、ドイツ (1883年)、スイス (1864年)、オーストリア (1866年・1885年)、デンマーク (1858年・1866年)、イタリア (1862年・1869年) とそれぞれ二国間条約を締結している。しかし二国間条約の場合、保護水準の低い国、すなわち文化の輸入国に合わせて締結内容が定められるため、保護水準が高く、文化の輸出国であったフランスは、国内と比較して国外でのフランス著作物の保護が十分ではなかった。 たとえば当時の一部の国では、自国民が外国で著作物を発行した場合、内国民としての保護を排除していた。著作権の発生要件または訴訟前提条件として、登録または納本手続を必要とする方式主義を採用していた国もあった。翻訳権や、小説の劇化といった翻案権を認めていない国もあった。またはこれらの権利を認めていても、方式主義を採用していたことから、実質的に機能しきれていない国があった。翻訳権の保護期間も、登録から3か月で失効する国もあった。また、出版権は認めるが、発行物に上演権と演奏権を留保すると表示していない場合、他者が無断で上演・演奏できた国もある。新聞を他者が複製する自由が一部では認められていた。そもそも、各国の権利保護期間にもバラつきがあり、国際的な統一の必要性があった。 こうした中、著作権の国際的な保護を協議すべく、1858年9月に「文学的美術的所有権会議」がブリュッセルで非公式に開催された。さらに、1878年のパリ万国博覧会を契機に、フランス政府の呼びかけによって各国の学者・美術家・文学者・出版業界の代表者が集まり、著作権に関する会合が持たれた。この会合の結果、フランスの文豪であり政治家でもあったヴィクトル・ユーゴーを名誉会長とした国際文芸協会 (後の国際著作権法学会 (略称: ALAI)) が創設された。また、のちのベルヌ条約として具現化することとなる国際条約の起草・締結の必要性を、当会合からフランス政府に要請することとなった。その後、国際文芸協会による1883年9月の会合で、内国民待遇と遡及効を盛り込んだ条約案が採択された。 これ以降は、各国政府による公式な外交協議へと移った。第1回ベルヌ公式会議 (1884年9月)、および第2回ベルヌ公式会議 (1885年9月)を経て、第3回ベルヌ公式会議 (1886年9月) でベルヌ条約の条文が固まり、10か国が調印し、うち8か国が批准して、翌年1887年12月7日にベルヌ条約は発効した。ベルヌ条約の原署名国はベルギー、フランス、ドイツ、イギリス、ハイチ、イタリア、スペイン、スイス、チュニジア、リベリアの10か国 (うちリベリアとハイチは署名のみで批准せず) と少ないが、イタリアとスペインは植民地にも適用し、イギリスも植民地および保護国を含むとしたことから、世界の広域をカバーした国際条約の成立であった。 なお、ロシアをベルヌ条約の枠組に取り入れようと何度も試みたが、失敗に終わっている。当時のロシアは、多国間条約であるベルヌ条約だけでなく、文学的所有権に関するすべての条約を排除していた。
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