刀鍛冶の祖先
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長太郎の甥星野和太郎(長太郎の弟周次郎の長男、分家の文造家「上の新宅」を承継)著の星野家沿革によると星野家には「平姓にして藤原不比等の流れを汲み、藤原秀郷(藤原北家、平安時代中期に下野国押領使、承平天慶の乱を平定)に随従し刀鍛冶で仕えていた」との口碑が10代彌平(七郎右衛門朋信;文政7年(1824年)生〜明治19年(1886年)没)の代まであった。この伝承を裏付ける資料はない。藤原秀郷の弟、藤七郎家郷の子孫は平安時代末期より星野氏を号したと伝わる。祖先は平安時代後期、安倍宗任が陸奥(居城鳥海柵)から伊予に配流された際、主君鳥海弥三郎(安部宗任の別名)と行動を共にした一族郎党(従類730人)の中にいた。前九年の役で源頼義に滅ぼされた俘囚の長、安倍頼時の跡を継いだ二男安倍貞任の弟である安倍宗任は朝廷に帰服し赦免された。康平5年(1062年)源頼義の長男源義家は、自分の近臣となった安倍宗任を召し連れて上洛した。宗任は従類100人足らずと共に都に向かった。残り従類は途中で配流先の様子を見ることになり、宗任の弟鳥海弥三郎家任(安倍家任)に従い京都から陸奥に至る東山道のほぼ中間付近の渡良瀬川上流にあたる黒川郷(勢多郡小中村(後の東村小中、現みどり市東町小中)、水沼村など)とその周辺に踏み留まった。 源義家は安倍宗任を従えて都へ向かうが、阿久沢氏を残して源家の領地であるこの黒川郷を安堵させ、残りの従類も定着した。阿久沢氏は安倍一族直系の後裔とも言われる。この時、星野家三兄弟のうちの二人は刀鍛冶で、兄の星野右京之助は赤城山麓南東部の水沼村(後の黒保根村、現桐生市黒保根町)字関守に居を定め、一族は鍛冶屋組と呼ばれた。弟の左京之助は山麓北西部の沼田(現沼田市)に居を定め、後に周辺は鍛冶町と呼ばれている。星野家来住以前の水沼村に存したのは最も古い目黒家の他、神山、萩原各家の僅か3家であった。目黒家は、宿廻の深沢城主阿久沢氏に家人として仕えた目黒織部丞の一族。黒川衆筆頭の土豪となった阿久沢氏は戦国時代に宿廻の深沢城主となった。天正18年(1590年)小田原の役の際、阿久沢氏は北条氏直側に立ち小田原城に立て籠もったが、豊臣秀吉による小田原城開城(氏直の降伏、小田原北条氏滅亡)とともに深沢城は廃城となり、阿久沢氏は帰農した。神山家は足尾から移居したと言われ、村では裕福な一族であった。なお戦国時代、黒川郷武士団の棟梁松島氏は小中村を居留地としていた。松島氏は安倍氏遺臣の子孫と言われているが、星野家とも姻戚関係を持っていた。 水沼村(後の黒保根村)の記録に残る近世の星野家(鍛冶屋組、右京之助の子孫)の祖先は天正19年(1591年)に亡くなった星光院悟山玄道居士(戒名)からといわれ、戦国時代終期にあたる天正年間(1573年〜1591年)には水沼村に定着していた。更に遠い祖先を偲ぶものとしては小さな背負石(墓2基)が星野家墓地観音堂前に残る。星光院の二男(管星院霊岳曹源居士(戒名)、正保4年(1647年)没)が初代星野七郎右衛門を名乗り、屋号カネホン(曲尺┐の中に「本」の屋号紋)の始祖となった。以後星野家代々が七郎右衛門を襲名した。長男は屋号榊屋を引き継いだが後に宗家は一時途絶した。星野家の菩提寺である水沼村の赤城山常鑑寺(曹洞宗)は元亀2年(1571年)の開山で、開基は萩原与惣左衛門とされる。本堂は安永元年(1772年)再建されたが、長命で大御所様とも呼ばれていた6代半兵衛(七郎右衛門朋明;宝永7年(1710年)生〜寛政7年(1795年)没、85歳)が再建に多大な貢献をした。寺では半兵衛を中興開基として本堂奥の位牌堂に位牌を安置し供養している。星野家が刀鍛冶を続けていたのは、糸商人として活動を拡大し始め、足尾銅山の財政支援の役儀を初めて請け負った4代彌兵衛(1643年生〜1718年没)の代までと見られる。幕末期まで星野家(10代彌平)の蔵に先祖伝来の刀工用鉄敷が家宝として残され毎年11月鞴祭が催されていたが、官軍(東山道総督府先鋒隊)の乱入・略奪により鉄敷は消失した。
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