出征までとは? わかりやすく解説

出征まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:28 UTC 版)

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト」の記事における「出征まで」の解説

ヴァン・デル・ポストオレンジ川植民地(旧オレンジ自由国現在の南アフリカ共和国一部)のフィリポリスにある小さな町生まれたローレンスの父、オランダ出身のクリスティアン・ウィリアム・ヴァン・デル・ポスト(1856年 - 1914年)は、3歳のとき南アフリカ渡り、後にローレンス母になる人物1889年結婚した。母の名はラミィといい、ドイツ出身の人物である。一家全部15人になる子供がおり、ローレンス13番目の子にして五男である。クリスティアン法律家にして政治家であり、対イギリス第二次ボーア戦争戦った。この第二次ボーア戦争後、家族伴ってクリスティアンステレンボッシュ逃れたローレンスも母の胎内であるが、そこで過ごした一家1906年オレンジ川植民地のフィリポリスに戻り、ここでローレンス生まれたローレンスはその幼少期一家農園過ごしかなりの蔵書有する父の書斎ホメロスシェイクスピア含まれていた)から読書の楽しみを覚えた1914年夏に父が亡くなる。1918年ローレンスブルームフォンテーンのグレイ・カレッジに入学した。そこで深甚衝撃を受けることになるが、それは「自分黒人分かち合っていた同じ人類であるという感覚破壊するような教育がされている」からであった1925年研修としてダーバンの「The Natal Advertiser」で働きながらレポーター務めたのが、初めての仕事である。その「The Natal Advertiser」のローレンス記事には、ダーバン地元のグラス・ホッケー・チームで示されローレンス自身業績含まれている。 1926年、他の2人異議申し立てする作家ロイ・キャンベルウィリアム・プルーマーとともに、「Voorslag」という名(英語で whip lash鞭打ちの意)の風刺雑誌刊行した。これは、南アフリカそれまで上の人種的な統合呼びかける雑誌であり、その過激な見解のため3号までで発禁となったその後、プルーマーと3カ月休み取り東京へ船で向かった勝衛が船長務める「かなだ丸」という貨物船日本へ帰国する時のことである。この経験後年、この2人作家それぞれ本を書かせることになった1927年、ケープ・タウン・オーケストラを創設した指揮者の娘、マージョリ・エディス・ヴェント(1995年没)と出会うイギリスへ旅行行き1928年3月ドーセットのブリッドポートで結婚した同年12月26日息子生まれ、ヤン・ローレンス(1928〜)(後にジョンとして知られる)と名付けられた。 1929年ケープ・タウン新聞「ケープ・タイムズ」で働くため南アフリカへ戻る。ケープ・タウンでは「当初、マージョリと私はこれ以上ない凄まじい困窮ただ中暮らしていた」とローレンス日記残している。ジェームズ・ヘルツォーク首相南アフリカ白人優遇政策反対するボヘミアン知識人連携取り始める。「坩堝南アフリカ」と題する記事で、ローレンス南アフリカ人種問題対す見解明確にしたが、その中で「もとからの住民自分たちと平等になるべきだということを、南アフリカ白人これまで意識してそう捉えることをしてこなかった」と述べ、「地位向上と国内での交わり過程には絶えず力を注いでいかねばならない(…)南アフリカ今後文明開化は、黒色白色にあるのではなく茶色であると私は信じる」とも予言している。 1931年イギリスへ戻りアーサー・ウェイリーJ.M.ケインズ、E.M.フォースターヴァージニア・ウルフといった人物を含むブルームズベリー・グループ構成員友情築いていった。ヴァージニアレオナードウルフ夫妻出版人で、以前ウィリアム・プルーマー仕事出版しており、ヴァン・デル・ポストの、ウルフ夫妻ブルームズベリー・グループへの紹介は、このプルーマーの人脈通じてであった1934年ウルフ夫妻はホガース・プレスの書籍としてヴァン・デル・ポスト初めての小説出版した。この『In a Province』と呼ばれる作品は、人種的にそしてイデオロギー的に引き裂かれ南アフリカ悲劇的な結末描き出している。 その後毎日働く農夫になること、そしてリリアン・バウエス・ライオンの助力があって可能になるのだが、隣人である彼女とともにグロスターシャーのテットベリー近くコレイ農場購入することを決心した。そこでは、牛の世話南アフリカ新聞特派員としてロンドン時折尋ねることに時間を割いていた。この時期人生上、方向見失っていた時期だと捉えていたが、方向見失ったのは、ヨーロッパ戦争へゆっくりと転落していくことの反映であるとみなしていた。 1936年南アフリカへ5回往来していたが、その中でインガレット・ギフォード(1997年没)に出会い愛しあうようになった。インガレットはイギリス人女優著述家であり、ローレンスより5歳年上であった同年、妻マージョリは2番目の子供、ルチア(1936〜)と名付けられた娘を出産した1938年家族南アフリカ帰国させた。第二次世界大戦1939年勃発すると、ローレンスは、イギリス南アフリカとの間に、そして新たな愛ともとからの家族との間に引き裂かれ自分見出す人生が行詰まって気分落ち込み、しばしばアルコール溺れることになる。

※この「出征まで」の解説は、「ローレンス・ヴァン・デル・ポスト」の解説の一部です。
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