出征・戦死
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1943年12月1日に金沢の東部第49部隊に入隊。翌1944年初頭に幹部候補生試験と特別操縦見習士官試験に合格し、2月8日熊谷飛行学校相模教育隊に入隊。3月24日、群馬の館林飛行教育隊に転属。教師役を務める兵士は叩き上げの伍長や軍曹。教えを請う特別操縦見習士官より階級が下だったことが溝となって、理不尽な暴力が日常茶飯事だったと言われている。 1944年8月1日に鹿児島県知覧基地(西部第123部隊)へ、同年12月1日に佐賀県神埼郡三田川村の西部第110部隊に配属された。各地を転々とし、時には理不尽な暴力や劣悪な練習環境に耐えながらも、1945年2月1日に陸軍少尉に昇進した。3月上旬に目達原飛行場で開催された部隊内における対抗野球試合では、快刀乱麻の好投を魅せた。これが最後の野球になった。 1945年3月6日に特別攻撃隊に志願(上官からの催促があったと言われている)。5月5日に三重県宇治山田市(現・伊勢市)の陸軍明野飛行場にて「特別攻撃隊第165振武隊」に振り分けられた。 6月6日、爆装三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地を13時31分に出撃、16時00分頃沖縄洋上にて連合軍艦船群に突入戦死。「修養録」と題された日誌には辞世の句として、「いざ征かん 雨も風をも 乗越えて 吾れ沖縄の球と砕けん」。絶筆として、「野球生活八年間 わが心 鍛へくれにし 野球かな 日本野球団朝日軍 渡辺静」としたためられてあった。満22歳没。 東京ドーム敷地内の鎮魂の碑に沢村栄治らとともに銘記されている。
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