儒学
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政治のあり方や自己の生き方についての指針を求めるものが多くなった。忠孝・礼儀を重視した林羅山らの朱学派は、文治政治を裏付ける学問として主流となるとともに、封建社会を支える教学として幕府や藩に支持された。朱子学から陽明学派に転じた中江藤樹は知行合一を説いた。また、山鹿素行や伊藤仁斎、荻生徂徠ら古学派は、古典を研究し儒学古来の精神や文物を学ぶことを主張した。江戸幕府による安定した統治が長く続くにつれ、藩校における教育は、武術教育から次第に儒学を軸とした官吏育成教育へと変わっていくが、固定した身分制度の中で、技術の養育は「職人」に固定されていく。しかし、一般の子どもたちに、少なくとも「読み・書き・そろばん」を教える寺子屋 も生まれていく。読み書きのほか職業別の知識は「往来物(おうらいもの)」(商売往来、庭訓往来 、百姓往来など)、地名や地理は「国尽(くにづくし)」(日本の諸国の名をすべて挙げて、歌いやすいようにつないだもの)、名字は「名字尽」など様々な教材があった。
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儒学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
藤原惺窩(1561-1619)は日本近世儒学の先駆けとなった。『千代もと草』には次のように記される。天照大神は日本の主であるが、その神宮は茅葺であり、食事は黒米である。家居を飾らず珍しい物を食べずに天下万民を憐れむ。神武天皇以来、この掟を守って道を行ったため、後白河法皇まで代々子孫に天下を伝えて栄えた、と。また、神道については、万民を憐み慈悲を施すことを極意とする点において神道も儒教も同じであるという。 林羅山(1583-1657)は藤原惺窩に学び、日本儒学の棟梁になった。その著『本朝神社考』で、仏教を憎み、神仏習合を排斥した。また韻文で「倭賦」を作って神国日本の霊秀を詠じた。 山鹿素行(1622-1685)は林羅山に学び別に一家を立てた。兵法家として知られるが本人は儒者を自任した。幕府の忌憚に触れ赤穂に配流された。配流中の寛文9年(1669)に『中朝事実』を著した。同書では、日本の政教の淵源を説き、天照大神の天孫降臨の神勅によって皇統の無窮が永久に定まったことを述べ、また、日本が神国である所以を論じた。この書は日本を中朝、中華、中国と称した初めての例であった。山鹿素行はまた『配所残筆』を著して、他国と異なり優秀である日本の国体の淵源を説いた。 熊沢蕃山(1619-1691)は陽明学者として皇国の尊厳を高唱した。著書『集義外書』で「日本は辺土なれども太陽の出たまう国にして人の気質もっとも霊なり」といい、また著書『集義和書』で、仁義礼知信や智仁勇の論が日本にないようにみえるが、日本においては三種の神器を不言の経典となし、これらの諸徳の教えは全てこの神器によって表象されているのだと論じた。蕃山はまた、日本の皇祖は呉の太伯の後裔であるとの説を立てたが、この説は後に批判された。蕃山の著とされる『三輪物語』には「本朝は三界の根源にして神明をもって元祖とす。神明は宇宙の宗廟なり。我が国開闢の初め天地と共に神明あらわれ給えり。故に国を神国といい道を神道という。」「千界の源、万国の本は、我が国なり。」「我が朝の皇統を至尊と仰ぎ奉ることは本よりの義なり。」と記された。
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儒学
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『天論』は柳宗元の『天説』に呼応するもので、天に関する考え方を変革する先鞭となった。従来の天人相関説に異議を唱え、天は万物を生成するだけであり、人は法によってそれらを制御することができると説いた。
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