儒学における魂魄現象の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 08:03 UTC 版)
儒学(すなわち公式な学問)の解釈では、張載(11世紀)の鬼神論を読んだ朱子の考察として、世界の物事の材料は気であり、この気が集まることで、「生」の状態が形成され、気が散じると「死」に至るとした上で、人間は気の内でも、精(すぐ)れた気、すなわち「精気」の集まった存在であり、気が散じて死ぬことで生じる、「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」といった現象は、気が散じてゆく姿であるとした。この時、魂は「神」に、魄は「鬼」と名を変える(三浦国雄『朱子集』朝日新聞社)。この「魂・魄」から「神・鬼」への名称変更は、気の離合集散の原理の解釈によるもので、気がやって来るのは「伸」の状態であり、気が去っていくのは「屈」の状態であるとして、気の集散=気の伸屈・往来と定義したことから、「神」は「伸」(シン)に通じ、「鬼」は「帰」(キ)に通じ、元へ戻る=「住」(向こうへ行く)となる。ここに、鬼神=気の集散の状態=魂魄と至る。 「気は必ず散るものであり、二度と集まることはない」と儒学では定義しているが、これは仏教における輪廻転生という再生産を否定するためのものである。ただし、子孫が真心を尽くして祀る時、子孫(生者)の気と通じ感応することで、この世に「招魂」されるとする。一度、散じた気=魂魄は集まらないとしつつも、招魂の時は特別とする、この一見して矛盾した解釈こそ重要であり、この説明がなければ、祭祀の一事を説明できなくなるためである。この現象に関して、後藤俊瑞は「散じた気が大気中に残存し、再び集まり来ることを許容するものである」としたが、この矛盾した解釈をめぐっては、日本の朱子学者を悩ませる種となり、林羅山に至っては、「聖人が祭祀を設けたために、鬼神(=魂魄)の有無を半信半疑(中立的な立場)にならざるをえない」としている(『林羅山文集』巻三十五・祭祀鬼神)。これが因となって、日本近世では、無鬼論者(伊藤仁斎)と有鬼論者(荻生徂徠)に分かれた。
※この「儒学における魂魄現象の解釈」の解説は、「魂魄」の解説の一部です。
「儒学における魂魄現象の解釈」を含む「魂魄」の記事については、「魂魄」の概要を参照ください。
- 儒学における魂魄現象の解釈のページへのリンク