信長の死秀吉との講和とは? わかりやすく解説

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信長の死・秀吉との講和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「信長の死・秀吉との講和」の解説

6月2日高松城攻防戦最中信長が京において明智光秀によって討たれるいわゆる本能寺の変発生したいち早く情報得た秀吉は、光秀謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦模索し安国寺恵瓊働きかけた。輝元ら毛利側は秀吉から毛利氏諸将のほとんどが調略受けていると知らされ疑心暗鬼に陥り、講和受諾せざるを得なかった。 6月4日備中高松城講和により開城し、城主清水宗治らは切腹した。また、中国地方毛利氏支配領域に関しては、秀吉当初割譲要求していた美作備中伯耆出雲備後5ヶ国から、美作備中伯耆三国割譲することで妥協された。ただし、この時結ばれたのは当面戦闘中止するとした停戦協定過ぎず、輝元と秀吉講和ではないとする見方もある。輝元は信長の突然の横死清水宗治犠牲引き換え危機脱するとなった秀吉その日のうちに撤退し毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日5日であったことが、紀伊雑賀衆からの情報であったことが輝元の従兄弟吉川広家覚書案文)から確認できる。この時、元春などから秀吉追撃すべきいう声もあがったが、隆景が誓紙交わした以上は講和遵守すべきと主張したため、輝元も追撃断念したとされるが、兵力からいっても、毛利氏追撃は無理であったのが実情である。 6月9日信長の死を知った義昭は隆景に対し帰京するために備前播磨出兵するように命じたが、輝元は講和遵守して動かなかった。毛利氏上方情報収集行ったが、領国動揺鎮めることで精一杯であり、進攻する余裕はなかった。 6月13日秀吉山崎の戦い光秀を破ると、輝元は秀吉戦勝を祝うため、安国寺恵瓊使者として派遣した。だが、輝元は秀吉戦勝祝したものの、諸方面の戦闘では譲らず、美作伊予では羽柴方との戦闘継続したまた、秀吉柴田勝家覇権巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘い受けたこの間義昭勝家から自身帰京約束取り付けると、毛利氏勝家支援させるように動き始めたが、輝元は両者抗争静観し続けた天正11年1583年3月勝家近江出陣すると、輝元とともに秀吉挟撃しようとし、義昭すすめて元に出兵督促させた。これを受け、4月義昭毛利氏柴田方に加勢し秀吉攻撃するように命じた。だが、輝元は「どちらが勝利する判断できない」という元春や隆景らの意見重視し両者との通交維持して情勢見極める方針打ち出した同月秀吉賤ヶ岳の戦い勝家勝利すると、秀吉毛利氏に対して強硬な姿勢取り、再侵攻ほのめかすようになった秀吉恵瓊宛てた5月7日付の書状では、輝元に美作備中伯耆三国割譲することなどを条件講和迫り、もしこれを拒否した場合毛利氏を滅ぼす、という旨が記されており、輝元に決断迫った。 輝元は恵瓊から説得受けたものの、元春や隆景が領地割譲反対し、国境の画定交渉難航した加えて割譲求められ美作備中伯耆三国では、毛利氏配下国人たちが領有地域からの退去抵抗し、その説得のためには安易な妥協はできなかった。美作では、毛利氏配下草刈氏や中村氏宇喜多勢の侵攻撃退しており、輝元自身秀吉との軍事衝突突入して互角に戦えると判断していた。だが、恵瓊秀吉戦闘入った場合9月16日付の書状では「十に七・八負ける」と判断しており、輝元に軍事衝突避けるように説得し続けた天正12年1月秀吉毛利氏との講和交渉進まない事に激怒し明け渡し対象毛利氏諸城攻撃示唆したばかりか、また講和条件美作備中伯耆三国割譲ではなく当初美作備中伯耆出雲備後の5ヶ国割譲立ち戻る脅した前年10月に輝元は叔父小早川元総と元春の三男吉川経言毛利氏人質として提出していたが、これは秀吉からすれば毛利氏一時しのぎしてみなされていなかった。 このとき、秀吉徳川家康織田信雄との関係が悪化しており、輝元が軍を率いて上洛し、背後から毛利勢が襲ってくるのではないかという心配に駆られていた。秀吉毛利氏参戦するのを恐れ小牧・長久手の戦いの間もずっと、宇喜多秀家因幡衆に警戒させていた。毛利氏また、この小牧・長久手の戦いに対してどちらかと言えば中立的立場であり、積極的な介入行っていない。 同年11月秀吉家康・信雄との講和成立し秀吉はさらに強大な勢力を持つようになった。輝元は秀吉東海から引き上げて西国へと転向し毛利氏領国侵攻することを恐れようになったまた、同年秋に備前美作での戦闘終結し毛利氏配下国人たちは退去しつつあった。 天正13年1585年1月、輝元は秀吉との国境画定応じ毛利氏安芸国備後国周防国長門国石見国出雲国隠岐国7ヶ国に加え備中伯耆両国それぞれ西部領有することとなった。輝元は祖父以来領地多く認められ、その所領の総石高1205,000石となり、徳川家康織田信雄らと並ぶ大名となった。 こうして、輝元は秀吉正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏織豊政権戦闘はようやく終結した京芸和睦)。

※この「信長の死・秀吉との講和」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「信長の死・秀吉との講和」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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