佐々成政
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佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子[1]。通称は内蔵助。家紋は棕櫚(シュロ)。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。
注釈
- ^ ただし、家康は成政を見捨てた訳では無く、富山の役の最中に羽柴方についていた信濃国の真田昌幸を攻撃している(第一次上田合戦)のは、秀吉を牽制して成政を救う意図があったとする指摘もある[28][29]。
- ^ 53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる[40]。また、天文年間誕生説は17世紀後期になって初めて出現したのに対し、永正年間説は林羅山が編纂した『豊臣秀吉譜』や加賀藩士関屋政春の覚書を甥の有沢武貞が整理した『政春古兵談』が採用していることに注意すべきとする指摘もある。前者は成政死去時は6歳ではあるものの時代的に大きく離れておらず、後者は成政没後の生まれであるが成政旧臣が多く仕えていた加賀藩の家臣で、成政を直接知る者と面識があった可能性があるからである[41]。
出典
- ^ 花ヶ前 2002, p. 11, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 10, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 72, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 16, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 17, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 74, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 18, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 20, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
- ^ 萩原、2023年、P10・434-436.
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- ^ 花ヶ前 2002, p. 113, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
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- ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P274-276・279-283.
- ^ 花ヶ前 2002, p. 33, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
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