肥後治政についての諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 10:05 UTC 版)
佐々成政が身を滅ぼす元凶となった肥後国人一揆とその原因とされる検地強行については、様々な評価がある。従来は、小勢力ながら武士である国人が割拠する肥後に対し秀吉は慎重な統治を求めたのに対し、成政が強硬な手段に出たため反発を招き一揆が勃発したとされ、そこから逆に秀吉の陰謀説も唱えられていた。しかし、この説には、疑問もしくはより複雑な背景があるという意見が提示されている。 秀吉が成政に慎重な領国運営を求めた論拠は、『太閤記』にある「五箇条の定書(制書)」に記された国人の知行安堵と三年の検地禁止にある。しかし、天正13年(1585年)6月6日に与えたとされるこの書は宛名が「佐々内蔵助」となっており、それに先立つ6月2日に成政を肥後国主に任命する領地宛行状(『楓軒文書纂』)にある宛名「羽柴肥後侍従」とも、またそれに先立つ5月晦日に国人の相良長毎や大矢野種基に宛てた朱印状にある成政を指す「羽柴陸奥守」とも異なる。また、文体に漢文と和漢文が混ざっている点も不自然である。これらを証拠に、定書には疑問が呈されている。 成政は入国後検地に着手し、これに反発した7月10日の隈部親永反乱が国人一揆の勃発を呼んだとされている。しかしながら、成政検地の実態は明らかにされていない。大宰府天満宮文書に残る合志郡富納村の実施例(『肥後国合志郡富納村天満宮領指出分置日記』)では、検地は指出方式で行われ、具体的な石高は記録されていない。ところが、小代親泰へ与えた安堵宛行の文書では、秀吉の安堵が200町なのに対し、成政は秀吉安堵が50町であり100町を新たに成政が与えるとしている。このような分析から、成政は肥後国人支配を朱印状に基づく秀吉直下から、成政が影響力を持ち、間に入る重層型への切り替えを行いつつ、実質の領地を削減しようとした行動があったものとみなす説もある。その他にも、領地組み換えを行い勢力の分散を図った点も見られ、これらが複合的に国人の反発を招いたとも分析されている。 秀吉は、「五畿内同前体制」と呼ばれるように九州を畿内と同様に重視していた。この背景には、既に朝鮮半島そして明への遠征(後の文禄・慶長の役)が視野にあったとされる。重要な兵站後援地となる肥後の国主に成政を任命した背景には、それだけ秀吉は成政を高く評価していたという説もある。羽柴姓や陸奥守という官職を与えていたところが、この根拠とされている。
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