肥後朝顔の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
黄蝉葉種の澄んだ色彩、縞柄、筒白抜けという長所はすべて肥後朝顔から取り入れられた。肥後朝顔は洲浜変異を持つ一連の品種群である。仁田坂は「起源は恐らく大輪朝顔と同じで、江戸後期に出現した洲浜系統が九州に渡り、熊本で栽培されていたものに由来すると考えられる。」と述べている。。中村は熊本藩第6代藩主細川重賢が宝暦年間(1751年 - 1764年)の創始と伝えられるが、品種が洗練されている点、他の地の発達史から考えて到底信じられないとしている。明和2年(1765年)の「草木うつし」には朝顔6品が写生されているが洲浜はなく全部常葉である。米田は「細川家の家老であった八代市の肥後松井家を訪れ、文化文政期以降に作成されたと思われる朝顔絵巻を調べたことがあるが、多数の変化朝顔の中に洲浜葉を持つ多曜性の花は、残念ながら見つからなかった。」と述べている。村山によれば、代々松代城主であった松井家に伝わった、文化文政期に書かれたとされる「朝顔生写図鑑」に写生された渦川という品種は、青地白斑入洲浜葉の紅色花で肥後朝顔の一品種「司紅」によく似ているとされる。仁田坂は「大輪品種の元になった洲浜品種も黒田(福岡)に由来するように、幕末から明治にかけて九州では洲浜は比較的広まっていたのかもしれない」と述べている。明治32年(1899年)涼花会が結成され、明治35年(1902年)には名古屋朝顔会から多数の入会を見た。これが後に名古屋での黄蝉葉種の誕生につながった。昭和15年には会員180名にも及んだ。第二次大戦後はようやく命脈を保っていたが、昭和28年(1953年)6月の風水害により栽培品の大半が流出し絶滅の危機を迎えた。しかし徳永据子の栽培品15種が残り、絶滅の危機を免れた。昭和35年(1960年)には天皇皇后の天覧に供された。それを長崎で日本遺伝学会に出席中の国立遺伝学研究所の竹中要が新聞報道で知り熊本に立ち寄り、徳永の栽培場を調査、肥後朝顔の生存を中央の朝顔界に報告した。昭和36年(1961年)涼花会は復活し、現在(2020年)まで明治以来の品種と栽培法を守り伝えている。
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