肥後時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 10:05 UTC 版)
天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に検地を行おうとするがそれに反発する隈部親永を中心とする国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。 天正16年(1588年)2月、成政は謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉される。秀吉は安国寺恵瓊による助命嘆願に耳をかすこともなく、加藤清正を検使として、成政の切腹を命じた。切腹の時、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれる。墓は摂津国尼崎の法園寺にある。成政の二人の兄や娘の年齢から、没年齢53歳説が有力とされている。戒名は成政寺庭月洞閑大居士。辞世歌は「このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり」。これは、秀吉に肥後一揆の責任を問はれ、「召喚されて以来の災難災厄、それが「厄」だ。その厄によって悶々と悩みぬき、思ひめぐらした「妄想」、それを入れて置いた鉄鉢袋ともいふべきわが肉体を、今打ち破って死に赴く」という悟達の心境を詠んだものである。平成10年(1998年)、法園寺境内の供養塔の一角、成政公新墓の向かいに辞世碑が建立された。新墓と同じ大きさである。
※この「肥後時代」の解説は、「佐々成政」の解説の一部です。
「肥後時代」を含む「佐々成政」の記事については、「佐々成政」の概要を参照ください。
- 肥後時代のページへのリンク