黄蝉葉種の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
青斑入蝉葉種は花径の大きさを競い、主に行灯作りで育てる物であるが、黄蝉葉、黄斑入蝉葉種の品種は花径の大きさよりも色彩や模様の優美さを主眼とし、主に蔓を伸ばさない切り込み作りに用いられる。黄蝉葉種は名古屋が発祥である。明治30年(1897年)に名古屋で月曜会が組織された。明治35年(1902年)名古屋朝顔会と改称された。この会は当時村瀬亮吉、浅井信太郎、宮島吉太郎の3氏が中心となって運営していた。この3氏は熊本の涼花会にも入会しており、村瀬亮吉が涼花会から入手した当時「九州熊本産六曜平咲洲浜葉系縞物」と呼ばれた肥後朝顔(肥後朝顔の由来については次項で述べる)と、並性の最大輪種であった「西施の誉(黄鍬形葉薄紅無地)」を交配し明治40年(1907年)に黄蝉葉群青乱立縞筒白を選出した。これが黄蝉葉種の原種である。また宮島吉太郎が明治39年(1906年)に自然変化で得た純白花の「銀世界」ももう一つの原種である。他にも明治39年(1906年)陳列会出品花には、黄鍬形千鳥葉紅柿無地や錆柿無地の品種が記載され、中村は「無地花の原種は『銀世界』一品だけではなかったようである」と述べている。宮島吉太郎は無地物、村瀬亮吉は絞り物作出に力を注ぎ、これらの原種の間で交配が行い、各種の鮮明色彩の無地、覆輪、縞の品種が作られ、明治45年(1912年)に黄蝉葉種の大輪朝顔は完成を見た。明治時代には開放的で200人以上いた名古屋朝顔会は大正時代には10数名(もしくは8名)となり、種子を門外不出とした。大正の中頃、名古屋朝顔会会員で愛知県の技師であった川人兵次郎は京都半日会の創立者広瀬広三郎(一笑園)と菊の同好者として交流していたが、広瀬の秘蔵する菊の実生新花を切望し、門外不出であった名古屋朝顔会の秘蔵種子と交換を条件としたところ承諾した。このため名古屋から京都に流出した。川人は名古屋朝顔会を除名されることとなった。一笑園ではこれに「名古屋種」と名付けて、一種5円という高値で売り出され、全国に広まっていった。黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」もその時売り出された。
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