五代才助とは? わかりやすく解説

五代友厚

(五代才助 から転送)

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五代 ごだい 友厚 ともあつ
五代友厚
時代 江戸時代末期 - 明治時代中期
生誕 天保6年12月26日1836年2月12日
死没 明治18年(1885年9月25日(満49歳没)
別名 徳助(幼名)、才助(通称
諡号 松陰
墓所 阿倍野墓地
官位 贈正五位[1]
主君 島津斉彬久光
薩摩藩
父母 父:五代秀尭
豊子
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五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日1836年2月12日〉 - 明治18年〈1885年9月25日)は、日本実業家[2]薩摩国鹿児島城長田町城ヶ谷(現在の鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ[3]正五位勲四等。通称は才助

大阪経済界の重鎮の一人。

大阪市の本邸跡は大阪科学技術館日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。

経歴

生誕と幼少期

五代は、薩摩藩の上級藩士で儒学者の五代直左衛門秀尭の次男として生まれる[4]。幼名は徳助又は才助と言う[5]。母はやす子、五代は兄の徳夫、姉広子、妹信子の4人きょうだいだった[5]。五代家は代々島津家に仕え、石高も禄高も高い由緒正しい家柄だった[6]。生家は、鹿児島城至近の城ケ谷村、現在の長田町にあった[4][5]

五代の幼少期については不明な点が多い[7]。五代の有名なエピソードとして、藩主の島津斉彬が、五代の父・秀尭に外国の地図の模写を命じ、友厚が外国語で書かれた地図を2枚模写し、1枚を島津斉彬に献上し、1枚を友厚が自室に飾ったというエピソードがあるが、近年の検証の結果、地図の模写は友厚ではなく、兄の徳夫が模写したというのが実情である[7]。地図を模写した時点で友厚の実兄・徳夫は13歳で、友厚は6歳ということを考えると、友厚によるものとは考えにくい[7]

五代は、児童院にて修学し、その後10歳の時に、薩摩藩の藩校である造士館に就学する[7][5]。造士館の同窓生には、後に家老となる小松帯刀がいる[8]

武士・役人として

五代が留学した長崎海軍伝習所の絵

安政元年(1854年)、ペリー浦賀沖に来航し天下は騒然となる[9]。同年、父の秀尭が死去し、藩に郡方書役に出仕することなる[10]。ペリーの来航など、外国船の来航により、幕府は長崎に海軍伝習所を開設し、五代は長崎海軍伝習所への留学命令が下される[9][10]。五代は、長崎海軍伝習所において、勝海舟榎本武揚らと同窓生となる[11][12]。同伝習所において、航海術、軍事教練、外国語を学ぶ[4][11]。長崎海軍伝習所の教官であったヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケの日記には、勝海舟、松木弘安(寺島宗則、以降寺島宗則と記載)、榎本武揚を高く評価する一方、五代の名前は出ていない[11][13][14][12]

五代は1年半ほど長崎海軍伝習所にて学び、1858年に藩主の島津斉彬が死去し、一旦薩摩藩に帰藩し、再び長崎へと戻る[15][16]。五代は、明治新政府に出仕するまで約11年間を長崎で過ごす[16] [10]。1862年1月、五代は薩摩藩の御船奉行副役を拝命する[15][17]。これは、藩の船舶や軍艦の購入や管理を行う役職である[15]。薩摩藩は、軍艦製造に着手したものの、性能は悪く、外国製の軍艦購入に方針転換する[15][17]。五代は長崎赴任中に、トーマス・ブレーク・グラバーと出会い、交流を深める[4] [16]。1862年1月、五代は、グラバーと共に、上海まで行き、4万両の艦船買い付けを行った[17][10]。また、同年4月にも、上海に渡航する[17][10]。2度目の上海渡航時は、水夫として身分を詐称し、上海の市況調査を行った[10][18]。この時、同行者には高杉晋作がいた[18]

薩英戦争とイギリス留学同行

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

1862年8月21日、生麦事件が起こる[19] [20]。事件の処分を巡り、薩摩藩とイギリスは対立し、薩英戦争が勃発する[19][21]。五代は、寺島宗則と共に捕虜となる[22]。五代はこの時、イギリス軍に、薩摩藩には強大な兵力がいると誇張し、上陸作戦を思いとどまらせたという逸話があるが、これは過大評価とみる向きもある[22]

五代らは、横浜にて釈放されたが、捕虜となったため、評判を貶めてしまい、横浜周辺で潜伏し、その後1864年1月に長崎へと場所を移し、隠遁生活を送った[4][23]。隠遁生活中、十か条からなる意見書を薩摩藩に提出した[4][23]。意見書の内容の詳細は分かっていないが、英仏への留学生派遣、産業振興、軍備の増強などであると見られている[23][20]

五代の意見書によって、家老となっていた小松帯刀は、英仏への留学生の選定と派遣を決定し、1864年5月頃に五代を薩摩藩に呼び戻した[24][25]。イギリスへの留学生派遣が決定され、五代はグラバーと連携し、留学に向けた手配を行った[26]。五代も留学生の一団の御船奉行副役(副団長)として同行する[4]

薩摩藩遣英使節団は、1865年3月22日に薩摩を出港し、船内で髷を切り、香港で洋装を調達した[24]。そして、5月28日、サウサンプトン港に到着する[27][26]。到着後、五代はイギリス、ヨーロッパ大陸を視察する[27]。イギリスでは、紡績機械や銃、双眼鏡を買い付ける[28][27]。そして、ベルギー又はロンドンにおいて、シャルル・ド・モンブランと出会い、商社の設立を合意する[29][30]。この商社設立については、詳細は不明であるが、様々な理由によって実現することは無かった[31][29][32]

五代は、ロンドン滞在中に、同地より薩摩藩に向けて18か条からなる建言書を送付する[33][34]。この建言書には、ベルギーとの和親条約の締結と同国との商社設立、富国強兵、殖産興業、パリ万国博への出展が記載されていた[28][34][35]

帰国と明治政府官吏時代

五代が設立に関与した旧鹿児島紡績所技師館
薩摩藩士五代才助・小松帯刀と英人T・B・グラバーらの尽力で設けられた小菅修船場跡

五代ら薩摩藩遣英使節団は、1866年2月に帰国する[36][37]。1867年4月、薩摩藩はパリ万国博への出展を決定し、五代は帰国後は、御用人外国掛を命じられ、長崎に在勤しながら、万国博出品に貢献する[33][38]。また、グラバーと共に、武器の買い付けを行い、長州藩へと供給した[39]

1867年12月、新政府が樹立され、五代は外国事務掛となり、大阪に勤務する[4][39]。これは今でいう外交官に相当する官職であった[4]。だが、職名は頻繁に変わり、1868年1月23日には大阪外国府事務掛に、2月20日には大阪外国掛判事、6月5日には大阪府権判事、9月19日に大阪府判事と変わった[40]

慶応4年2月15日(1868年3月8日)に和泉国堺町内で起こった堺事件

この頃の関西は治安が極めて悪く、外国人と日本人による衝突が相次いでおり、薩摩藩は外国人の安全を守る任務があった[41]。1868年2月に起きた神戸事件では、五代は事件の処理に当たった[42]。神戸事件の処理後、間もなく、堺事件が起きる[43][44]。これは土佐藩士が、堺に現れたフランス水兵11名を殺害した事件で、フランス公使レオン・ロッシュが抗議し、加害者である土佐藩士20名の処刑と、賠償金を要求する[44][45]。この時、五代は行方不明となっていたフランス水兵の遺体の捜索と回収に当たり、期日の時間に間に合わないことを悟り、一計を案じて自身の懐中時計を数時間遅らせたことで、期日通りに引き渡した[44][46]

堺事件後、京都において天皇と外国公使が謁見することになっていたが、今度はイギリス公使ハリー・パークスの一行が切りつけに遭い、これを知ったフランス公使レオン・ロッシュが兵庫から横浜に退避しようとしたが、五代の説得により思いとどまり、予定通り京都において天皇との謁見を完了し、兵庫へと戻った[47]

1868年12月6日、グラバーらと共に長崎の小菅に小菅修船場を設立し、これはソロバンドックとして知られる[48][39]

五代は、1868年2月末から大阪に勤務し、同年7月明治政府は、大阪開港を宣言し、貿易事務を扱う川口運上所を設置、五代は責任者となる[49]。大阪港開港に向け、五代は外国人の居留地(旧川口居留地)の設定と建設を行わせた[50][51]。また外国人の慰安施設のため、松島遊郭の認可を行ったとされる[51]。だが、外国人は、居留地付近であっても狩猟を行うなど、素行が悪く、五代は各国公使に対して厳重に抗議している[52]。五代は不正に厳しく、それを見かねた当時兵庫県知事であった伊藤博文が、五代に対して忠告文書を送ったほどであった[52]。だが、五代はあくまでも官吏たるもの公明正大であることが求められるとして頑なな姿勢を崩さなかった[52]

また、五代は付き合いの深かったシャルル・ド・モンブランからの大阪-神戸間の電信設置の申請については却下し、アメリカからの京都-大阪-神戸の鉄道敷設の申請も却下した[40][53]。これは中国が外国資本に委ねたために植民地化された実情を見ていたためであり、五代はあくまでも官営にこだわった[40][54]

明治政府は、戊辰戦争の戦費調達のため、貨幣鋳造が急務であり、五代友厚ら官吏に対し、造幣寮設置の指令が出され、五代は香港からイギリス製の造幣機械を買い付け、大阪造幣寮が設立される[55][56]

実業家への転身

官職の辞職

五代は官吏として成功したが、1869年5月、会計官権判事を拝命し、大阪から横浜へと異動となる[57][58]。五代の異動にあたって、大阪の五代の部下は留任を求めていた[58][59]。異動後、2か月ほどして、官職を辞職し、一度鹿児島へと帰郷し、間もなく大阪で事業を起こすことを決意する[60][58]。官職を辞職して間もない五代は「惣難獣」という戯画を書いているが、これは討幕派でありながら新政府に奉公した者を揶揄した狙いがあった[58]

大阪を代表する実業家へ

1869年10月、五代は大阪において、金銀分析所を設立する[61]。これは地金を造幣局に納入するという事業で、同事業は成功し、当時の金額で数十万円の利益を上げたとされ、実業家の地盤を築くことに成功する[62][63]。金銀分析所に次いで手掛けたのが、鉱山業である[64]。五代は、1871年鉱山業に乗り出し、奈良県にある天和銅山の取得を皮切りに、次々に鉱山を買収し、その数は26か所に及んだ[65][66]。鉱山の管理のため、弘安館と言う組織が設けられ、当時としては近代的な経営組織だった[57][62]。だが、鉱山業は、採掘量が一定せず、価格も不安定であったことや、災害や事故に遭うリスクもあり、経営はうまく行かなかった[67]

1881年、鉱山で採掘した銅を加工するための会社として、出資者の一人として大阪製銅会社を設立する[68] [69]。大阪製銅会社では、五代が全体で3番目となる大株主であった(筆頭株主は三井元之助)[70]。大阪製銅会社は、東京砲兵工廠への納品などで利益を上げたが、西南戦争の戦費調達のために増刷された不換紙幣の価値が急落、松方正義蔵相が紙幣の価値回復を行った結果松方デフレと呼ばれるデフレが起きる[71]。大阪製銅会社は、インフレ時に購入した製造機械が、デフレによって価値が下落し、経営状態が悪化、五代が存命中は業績が回復することは無く、1899年3月に経営破綻してしまい、住友財閥に買収される[71]

精藍所 西朝陽館跡

五代は鉱山業以外に、1876年9月、朝陽館という組織を設立し、製藍業を手掛けた[72] [73]。当時の日本では、安価で良質なインド産の藍の輸入に押されていたため、五代は政府から50万円を借り入れ、藍の製造と販売に乗り出したが、これもうまく行かず、五代が死去時に負債として残されることとなった[74][75][76]

五代友厚が手掛けた事業でうまく行った事業としては活版印刷と英和辞書の発行は成功したが、これは資金を援助したというのが実情である[72]。英和辞書については、1871年に増補版の印刷を五代が計画した[72]

江戸時代、最大の米取引所であった堂島の米取引所は、1869年になり禁止となったが、これによって物価の基準が失われてしまい、大阪の経済は大混乱に陥る[77][78]。五代はこの状況を受けて、政府と交渉し、1876年、堂島米商会所を設立し、物価の安定を図った[77][78][79]

その後、五代は1880年に東京馬車鉄道株式会社の設立に関与し、1881年には関西貿易社の設立、1882年神戸桟橋会社、1884年に阪堺電車の設立に関与した[68][69][80]。このうち現在の阪堺電車の設立については、発起人に名前が無く、どの程度関与したかは不明瞭である[81][82]

開拓使官有物払下げ事件

五代が中心となって設立した関西貿易社は、社長は杉村正太郎、五代は総監の地位に就き、輸出事業を手掛けることとなった[83][84]。当時北海道については、1869年に設立された開拓使と言う官営組織が、北海道の開拓並びに開発を行っていた[85]。代表的な事業にはビール工場や、牧場、林業がある[85]。だが、政府は官業による経営を転換させ、1881年に北海道開拓使の官業を民間に払い下げる方針を決定する[85]。これが大きな波紋を呼ぶこととなる。この開拓使については、当時1400万円もの資金を投入したのに対して、払い下げ価格は30年賦39万円という破格の安さであり、黒田清隆と同郷の五代が不当な利益を受けたと非難された[86][87]。結局、払い下げは中止されることとなり、関西貿易社は、経営が軌道に乗ることが無いまま1883年5月に解散する[85]。黒田清隆は開拓官有物払い下げに関して、根も葉もない報道のため、新聞社や雑誌社を告訴し、新聞社と雑誌社側が敗訴することとなった[88]。なお、この告訴においては、五代は加わっておらず、その理由は不明である[88]

大阪商法会議所の設立

大阪商工会議所

明治維新後、商業を独占していた株仲間は解散させられた[89][90]。株仲間によって良くも悪くも商業の秩序が保たれていたが、株仲間の解散は、大阪においては弊害が大きく、商業上の信用が地に堕ちてしまう[89][91]。そこで、東京をはじめとして、大阪でも、株仲間に該当する組織として、1878年7月、五代ら15名の有志が、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の設立を出願し、五代は同組織の初代会頭となる[92][93][91]。五代は死去するまで会頭を務めた[94]

大阪商業講習所の設立

大阪商業講習所跡

1870年頃より、大阪では商業教育の熱が高まり、1880年9月有志から資金を募り、同年11月、私立大阪商業講習所が設立された(大阪市立大学を経て大阪公立大学へとつながる)[95]。同学校は、五代ら十数人が発起人となった[95]。だが資金面で学校運営は厳しく、五代らは同学校を、大阪府の管轄に置くことを府知事に提案し、府の管轄となった[96]

大阪株式取引所の設立

1874年10月、政府は株式取引条例を発布し、東京と大阪に株式取引所を設立することを決定する[97]。だが、同条例は、当時の日本の商習慣からすると、到底許容できる内容ではなかったため、東京では渋沢栄一らが、大阪では五代らが、条例の改正を求めたため、政府は、1878年5月に、修正した株式取引条例を公布する[97]。大阪では、五代らの呼びかけによって、大阪株式取引所の創立願書を、大阪府に提出し、その後1878年6月17日、大蔵卿の認可を受け、同年8月15日大阪株式取引所が設立された[97][79]。大阪株式取引所の創立時の株主は130名に上り、五代は、150株を所持し、これは全体で7.5%の持ち株比率であった[78]

下野後の政府閣僚とのかかわり

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ

明治政府は、1874年に佐賀の乱が勃発するなど、政府の地盤は極めて不安定であった[98]。台湾に漂着した日本人漁民が台湾の先住民に殺害される事件が起きると、征台論が起き、台湾出兵に反対した木戸孝允が抗議の形で、一時下野する[98]。蔵相を務めていた大隈重信は、独断専行する傾向があり、辞職を表明する[98]。大久保利通は、かねてより付き合いの深かった五代友厚に大隈の辞職を翻意させるよう依頼し、五代は5か条からなる忠告の書状を送り、引き留めに成功する[98][99]。また、下野してしまった木戸孝允に対して、大久保は大阪において、木戸を説得し、再び政府へと引き戻した[98]。この時、五代は、大久保に大阪の宿を提供し、政府閣僚らの連絡係を務めた[100]

死去

五代は若いころから酒をたしなんでいたにもかかわらず、健康であったが、1880年頃に心臓業を患い、1885年には糖尿病に罹ってしまう[4]。そして、治療の甲斐も無く、1885年9月25日死去[4][101]。五代の葬儀は大阪にて行われ、1886年に墓碑が建てられ、松方正義が「従五位勲四等五代友厚墓明治十八年九月二十五日卒」と揮ごうした[102] [103]

五代は生前から蓄財に興味は無く、100万円の負債が残されたが、五代の遺族が、鉱山や工場などの不動産を売却することで、完済した[104][103][105]

死去後の評価

1914年、正五位を贈位された、これを記念して「近代之偉人故五代友厚伝」が出版された[103]

1900年9月、大阪商業会議所に五代友厚の銅像が建造され、1943年、太平洋戦争による金属類回収令によって、台座のみが残された[104]。その後、1953年に再建され、除幕式には五代の孫である五代信厚らが出席した[104]。1961年には、五代の故郷である鹿児島に銅像が建造され、五代友厚の次女藍子、孫の信厚らが除幕式に出席した[104]

五代は、「東の渋沢、西の五代」と評されることが多い[106]。渋沢栄一が手掛けた事業には、第一国立銀行日本鉄道王子製紙日本郵船大阪紡績などの成功を収めた企業が数多くあるが、一方の五代は成功を収めた企業ばかりという訳ではなかった。渋沢が手掛けた企業は500社近くに対して、五代のそれは100社に満たない。また、渋沢が手掛けた企業は全国各地に展開した企業もあったが、五代の場合は、大阪又は関西圏が中心であった[107]。最も、渋沢が91歳まで生きていたのに対して、五代は49歳で死去したため、五代が渋沢と同じくらい長生きしていた場合は、より起業家として成功していたとする意見もある[106]

開拓使官有物払い下げ事件については、五代は「払い下げ問題は政局に利用されている」「新聞で弁明しようとしたが、政府要人から止められた」という書簡を出しており、公に弁明することは叶わなかった[108]

このため五代を創設者とする大阪市立大学のOBが、「五代が官有物を安く払い下げをうけた事実はない」として、教科書出版社に訂正を求める運動を行い[109] 、2023年度には第一学習社山川出版が払い下げ事件の記述から五代の名前を削除し、同業他社も「五代への払い下げの可能性が『新聞に報じられて問題になった』」と修正を行い、日本史年表を出版していた岩波書店も訂正する方針を示した[109]

年譜・功績

  • 天保6年12月26日(1836年2月12日) - 薩摩藩士である五代秀尭の次男として生まれる。
  • 嘉永4年(1851年) - 元服して、才助と名乗る。
  • 安政4年(1857年
    • 郡方書役を命ぜられる。
    • 長崎海軍伝習所に第1期生として派遣され勝海舟らに会う。
  • 文久2年(1862年)
    • 2月 - 藩庁より舟奉行副役の辞令が下りる。
    • 4月 - 蘭通詞岩瀬弥四郎のはからいで、千歳丸の水夫に変装して上海へ赴く[110]高杉晋作らに会う。
  • 文久3年(1863年) - 薩英戦争において寺島宗則とともにイギリス海軍に捕縛され、横浜に護送される[111][112]
  • 慶応元年(1865年
  • 慶応2年(1866年)2月 - 薩摩の山川港に帰着。直ちに、御納戸奉行にて勝手方御用席外国掛に任ぜられる。
  • 慶応3年(1867年
  • 明治元年(1868年
    • 明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられる。
    • 2月 - 外国事務局判事に任じられ、初めて大阪市に来る。同月、堺事件(フランス海軍襲撃と堺守備隊の狙撃)の調停にあたる[115]
    • 5月 - 外国権判事、大阪府権判事に任命される。川口運上所(後の大阪運上所、現・大阪税関)長に就任。
    • 9月 - 大阪府判事に任ぜられ、大阪府政を担当する。
    • 政府に造幣寮(現・造幣局)の設置を進言する。グラバーを通じて、香港造幣局の機械一式を六万両で購入する契約を結ぶ。
  • 明治2年(1869年
    • 5月 - 会計官権判事として横浜に転勤を命じられるが、2か月で退官し下野する。
    • 8月 - 大阪の両替商・久里正三郎の別邸に金銀分析所を設立する。
    • 大阪通商会社、為替会社の設立に尽力する。
  • 明治3年(1870年)3月 - 五代の要請で本木昌造が大阪活版所を創立する。日本で初めて英和辞書を印刷する。
  • 6月 - 初めての鉱山経営として吉野郡天川郷和田村に収益性が最も高かった天和鉱山を手掛ける。
  • 明治4年(1871年)4月 - 造幣寮、竣工。
  • 明治6年(1873年)1月 - 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立する。
  • 明治7年(1874年)7月 - 半田銀山(福島県)の経営を開始する。
  • 明治8年(1875年)1月 - 2月 - 五代の斡旋により、大久保利通・木戸孝允らによる大阪会議開催。
  • 明治9年(1876年
    • 9月 - 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立する。
    • 11月 - 堂島米商会所を設立する。
  • 明治11年(1878年
    • 8月 - 大阪株式取引所(現・大阪取引所)を設立する。
    • 9月 - 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、初代会頭に就任する。
  • 明治12年(1879年)11月 - 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設する。
  • 明治14年(1881年
  • 明治15年(1882年
    • 7月 - 共同運輸会社を設立。
    • 12月 - 神戸桟橋会社の設立許可を得る(1884年11月開業)。
  • 明治17年(1884年
  • 明治18年(1885年
    • 1月 - 大阪北中之島1丁目26番地に居を定める(現・日本銀行大阪支店)。
    • 9月 - 鹿児島より籍を大阪に移す。東京において日本郵船会社を斡旋する。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜う。
    • 9月25日 - 糖尿病により、東京の別荘で没する。満49歳。大阪市で葬儀[116]
  • 大正3年(1914年
    • 7月 - 五代友厚秘史が発刊される。
    • 11月19日 - 大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈される。

家族

  • 父 - 五代直左衛門秀尭(1790-1853)。島津家譜第の家来であり[117]、島津藩儒官(儒学教師)で町奉行も務めた[118]。子に長男・徳夫、長女・広子(祁答院家へ嫁ぐ)、次男・才助(友厚)、次女・信子[117]
  • 母 - 本田やす子(?-1868)[118](きよ子?)[117]
  • 妻 - 坂本広子。慶応3年(1867年)に結婚し、娘・治子(のち松子)をもうけるも離婚[117][118]
  • 後妻 - 豊子(本名・トヨ)(1851-1892)。1870年に結婚 彼女の一族は奈良県田原本町の出身。実家は田原本町八尾村常磐町。安養寺から鏡作神社までの中街道筋に当たり、トヨは、そこで塾を開いていた儒学者、萱野恒次(通称・庸司)の三女として、嘉永4年(1851年)に生まれた。豊子の実兄 森山茂は維新政府の神戸外交官であり、友厚と深く交流があった[118]
  • 長女 - 五代武子(1871-1915)[119]。1886年に九里龍作 (1858-1938)と結婚。龍作は紀伊国(現・和歌山県)本宮の士族・高須兵太夫の次男だが[119]大阪で両替商をしていた叔父の紀伊国屋九里正三郎の養子となり大阪府平民となった[120]。1875年に東京の外国語学校を卒業し、1881年に帝国大学工学部を卒業[121]。大阪製銅の技術者を必要としていた友厚の計らいにより[122]、第4回文部省留学生として[123]ロンドン大学で3年間機械工学を学び、1885年に帰国して東京大学教授になったが[124]、五代家に婿入りして五代龍作となり、友厚の事業を継いだ[125]。武子・龍作の息子に法学士・信厚[126]、娘に厚子(チッソ社長の白石宗城に嫁ぐ)がいる[127]。武子一家が暮らした友厚邸は1960年初頭に取り壊され、大阪科学技術センタービルとなる。友厚邸には、友厚のイギリス行きを支援した小松帯刀の妾・三木琴とその娘・壽美も小松の死後、同居していた。
  • 次女 - 五代藍子(1876-1965)。母親は宮地勝子(京都宮侍の娘、旧姓・大谷かつ)。友厚が設立した精藍所にちなんで命名された。義兄・五代龍作が経営する半田銀山に20代から身を寄せ、洋書で鉱山学を学び、明治期に友厚が採掘権を持っていた三重県治田村(現・いなべ市)の治田鉱山を1919年に買い戻し、五代アイの名で経営を始め、自らも地下足袋・もんぺ姿で山に通って採掘努力を続けたが、思うような成果が得られないまま現地で亡くなった[128][129]。現在もアイが掘らせた手掘りの隧道が残っている[130]
  • 三女 - 土居芳子(1881-?)。土居通夫(司法官、鴻池家顧問を経て、京阪電鉄など多数の企業の社長を歴任し、衆議院議員大阪商工会議所第7代会頭を務めた)の養女となり、1896年に宇和島藩主・伊達宗徳の五男・剛吉郎(1870-1949)を婿にして土居家を継いだ[131]。遺稿句集として『松乃華』がある[132]。剛吉郎は、阪東土地社長,大阪天王寺土地相談役[133]、阪神海岸電気鉄道の発起人[134] などを務めた。息子の土居保太郎(1898-?)は、子爵大給近孝の娘・幸子と結婚し、内閣府の文書係となり[135]、有識故実を調査する宮内官として欧州にも滞在[136]高松宮付事務官を務めた[137]
  • 四女 - 杉村久子(1882-1945)船場商家・杉村商店の杉村正太郎に嫁ぐ[138]。杉村は、鴻池住友といった豪商と肩を並べた素封家で両替商の「錫正(錫屋)」の息子で、家業の財力を元に杉村倉庫を創業し、大阪商船阪神電鉄、播磨水力電気、朝鮮電気などの重役を務めたほか、第四十二銀行や北浜銀行の整理で辣腕を振るう一方、個性的な性格から大阪財界の変人とも言われた[139][140]。その息子である野村正二郎野村維章男爵家へ養子)、杉村正三郎兄弟は極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され、後に正二郎は上智大学教授、正三郎は阪急電鉄常務を夫々務めた[141]
  • 長男 - 秀夫(1883-1907)
  • 次男 - 野村友太郎(1885-1926) - 野村維章の養子となり、後に男爵
  • 曾孫 - 五代富文[142](宇宙工学者、NASDA副理事長)

墓所・霊廟・銅像

阿倍野筋4-19にある大阪市設南霊園
阿倍野墓地 顕彰碑

明治18年(1885年)10月2日、阿倍野の墓地に従五位勲四等五代友厚墓として葬られる。阿倍野区の阿倍野筋4-19にある大阪市設南霊園(阿倍野墓地)の中央で石灯篭に囲まれている。

五代友厚の葬儀は中之島で行われた。

明治33年(1900年)9月、知人や商工会議所議員が相談して、大阪商工会議所の前庭に五代友厚銅像が建立される。

昭和35年(1960年)3月、大阪市制施行70周年記念として五代友厚創立の製藍所・西朝陽館跡に大阪市が建碑する。

鹿児島市の泉公園にある銅像

昭和36年(1961年)、追悼満75周年記念として故郷鹿児島に五代友厚銅像が建立される。

昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[143]』の一人として銅像が建立される。

平成16年(2004年)12月1日、大阪証券取引所の新ビル完成時に、五代友厚銅像が建立される。

若き薩摩の群像

平成28年(2016年)、生誕180周年記念として大阪市立大学杉本キャンパスに、同窓会を中心として五代友厚銅像が建立される。

文献

関連作品

小説
映画
テレビドラマ
漫画

脚注

  1. ^ 『官報』第692号「叙任及辞令」1914年11月20日。
  2. ^ 朝日日本歴史人物事典「五代友厚」
  3. ^ 五代友厚誕生地(Birthplace of Godai Tomoatsu)”. 鹿児島市 (2016年11月1日). 2020年7月25日閲覧。
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参考文献

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  • 田付茉莉子『五代友厚 : 富国強兵は「地球上の道理」』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2018年12月。 ISBN 978-4-623-08499-9 
  • 『五代友厚と渋沢栄一 : 日本を飛躍させたふたりの男の生涯』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2016年3月。 ISBN 978-4-8003-0866-5 
  • 宮本又郎『商都大阪をつくった男 五代友厚』NHK出版、2015年12月。 ISBN 978-4-14-081690-5 
  • 宮本又郎『五代友厚伝』有斐閣、1981年1月。全国書誌番号: 78011999 
  • 渡部修『功名を欲せず : 起業家・五代友厚の生涯』毎日コミュニケーションズ、1991年4月。 ISBN 4-89563-150-8 

関連項目

外部リンク


五代才助(五代友厚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:32 UTC 版)

お〜い!竜馬」の記事における「五代才助(五代友厚)」の解説

薩摩藩士。高杉晋作上海渡航した際に、同行していた人物の一人

※この「五代才助(五代友厚)」の解説は、「お〜い!竜馬」の解説の一部です。
「五代才助(五代友厚)」を含む「お〜い!竜馬」の記事については、「お〜い!竜馬」の概要を参照ください。

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