杉村正三郎とは? わかりやすく解説

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杉村正三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/10 17:38 UTC 版)

杉村 正三郎
名前
カタカナ スギムラ ショウザブロウ
ラテン文字 SUGIMURA Shozaburo
基本情報
生年月日 1907年8月16日[1]
大日本帝国大阪府大阪市[2]
没年月日 (2000-07-03) 2000年7月3日(92歳没)
日本兵庫県宝塚市 
選手情報
ポジション FB[3]
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
早稲田大学
代表歴
1927, 1930 日本 0 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

杉村 正三郎(すぎむら しょうざぶろう、1907年8月16日 - 2000年7月3日)は、日本の会社役員、サッカー選手

経歴

父は杉村倉庫創業者の杉村正太郎、兄は上智大学教授などを務めた野村正二郎であり[3]大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が母方の祖父に当たる。

旧制大阪府立天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)を経て早稲田高等学院に進学。早稲田高等学院3年次の1927年に上海で開催された第7回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出されたが出場機会は無かった[4]。同年9月14日に平壌での崇実専門学校との親善試合で代表初出場を果たした。

早稲田高等学院卒業後は早稲田大学理工学部電気工学科に進学[1]ア式蹴球部に所属し、在学中の1930年5月開催の第9回極東選手権大会の日本代表に選出されるも第8回大会同様に出場機会は無かった[2][5]

1931年3月に大学を卒業後は阪急電鉄に入社[1][3]、運輸部長や企画室部長を歴任して、1960年11月に取締役建設部長に就任[1]。1964年5月に阪急バスの副社長、1965年12月に阪急電鉄常務取締役に就任[1]。1966年に阪急電気工事の社長に就任、1980年に阪急電鉄の取締役相談役となった。また、阪急交通社の取締役も務めた[2]

2000年7月3日、兵庫県宝塚市老衰により死去した。享年92[6]

出典

  1. ^ a b c d e 阪急電鉄株式会社 有価証券報告書(1965年3月期)、2016年8月20日閲覧
  2. ^ a b c 日外アソシエーツ who plus 2016年2月19日閲覧
  3. ^ a b c 華族で貴族院議員。”. 賀川サッカーライブラリー. 2016年2月17日閲覧。
  4. ^ 第8回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年2月17日閲覧。
  5. ^ 第9回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年2月17日閲覧。
  6. ^ 「杉村正三郎氏死去」朝日新聞, 2000年7月5日、2016年2月17日閲覧

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