野澤正雄とは? わかりやすく解説

野澤正雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 07:23 UTC 版)

野澤 正雄
名前
カタカナ ノザワ マサオ
ラテン文字 NOZAWA Masao
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県
選手情報
ポジション MF
ユース
チーム
広島高校
東京帝国大学
代表歴
1930 日本 2 (0)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

野澤 正雄[1](のざわ まさお[2]1906年8月26日-1994年11月18日[要出典])は、広島県出身の元サッカー選手日本代表選手(全日本)。野澤晁、野澤信韶は実弟。

来歴

同級の手島志郎らと共に広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)から1925年、創設間もない旧制広島高校(現広島大学総合科学部)に進学。1926年、東京帝大主催による旧制高校の全国大会、第3回全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)では、ハーフバック(HB)・主将として1、2年生チームをまとめ準優勝。1928年の第5回大会では優勝に導いた。幅広い動きは当代随一と評され前線の手島らに好パスを供給し、全4試合で合計25得点を挙げる原動力となった。ユニフォームの色から"広高の赤シャツ"と相手チームに恐れられ決勝は8-1と若林竹雄らのいた旧制松山高校(現愛媛大学文理学部)を降した。この年のチームはインターハイ史上最強チームといわれた。

その後、東京帝国大学農学部に進学し、東京大学ア式蹴球部竹腰重丸、手島、若林、高山忠雄らと関東大学リーグ連覇、東大黄金期に貢献した。また、若林と共に招かれて湘南中学を指導した[3]

1930年、それまでの単独チームではなく、日本蹴球協会が大掛かりな選考を経て初めて編成した全日本選抜(日本代表)に選出される。ここでもハーフバックとして第9回極東選手権大会(東京)の国際Aマッチ2試合にフル出場し竹腰、手島、若林、竹内悌三ら共に日本の国際大会初優勝に貢献した。

その後の経歴は不明。

野澤晁、野澤信韶(松山高校-京都帝大)は実弟で、兄弟3人が国際大会の代表になった例は他にないという[4]

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1930)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1930 2 0 0 0 2 0
通算 2 0 0 0 2 0

出場

No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1930年05月25日 東京都 明治神宮外苑競技場  フィリピン ○7-2 鈴木重義 極東選手権
2. 1930年05月29日 東京都 明治神宮外苑競技場  中華民国 △3-3 極東選手権

脚注

  1. ^ http://samuraiblue.jp/timeline/19300529/
  2. ^ 『歴代日本代表パーフェクト名鑑 サッカーマガジン別冊夏季号』 ベースボールマガジン社、2007年、36頁。
  3. ^ 記念誌「湘南サッカー・半世紀を経て」 昭和初期の湘南サッカー
  4. ^ 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、47頁

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