世界のユーロビート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:51 UTC 版)
ユーロビートは、シンセサイザー等の電子楽器やコンピューターの打ち込みを多用した、BPMが120以上の速いテンポのポップな楽曲である。元はヨーロッパで1970年代半ばより流行していた「ユーロ・ディスコ」、1980年代前半に登場した「Hi-NRG(ハイ・エナジー)」、そして同時期にイタリアで生まれた「イタロ・ディスコ」に端を発しており、1980年代中頃より流行した。曲の構成の例としては、以下のようなものがある。「イントロ(16〜24小節前後)→シンセリフ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→サビ(8または16小節)→シンセリフ(8小節)→Aメロ(8小節)→Bメロ(8小節)→サビ(8または16小節)→……」。 1980年代後半、ユーロビート、ハイエナジー、イタロ・ディスコなどといった当時のヨーロッパのダンス音楽がまとめて「ユーロビート」の名称で日本に持ち込まれ、「ユーロビート」というジャンルは日本で独自の発展を遂げた。1990年代以降も日本のレコード会社・エイベックスなどから発注を受けたイタリアのプロデューサーによってユーロビートが制作された。ユーロ・ビートの前史は、70年代のユーロ・ディスコの隆盛に始まる。イタリアのジョルジオ・モロダーがシンセサイザーサウンドを前面にだしたサウンドメイクし、アメリカ出身だが当時は西ドイツを拠点としていたドナ・サマーが歌った楽曲がヨーロッパでヒット。ドイツのミュンヘンで結成されたシルバー・コンベンションも、当初ヨーロッパでヒットを出した。やがてこれらの楽曲が、アメリカや日本など世界的に広まっていった。このドイツ発シンセサウンドは「ユーロ・ディスコ」と命名された。ドナ・サマーがリリースした「アイ・フィール・ラヴ」「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」は、ハイ・エナジーのルーツになったとも言われている。また、ユーロ・ディスコではDDサウンド、アラベスク、ジンギスカン、ボニーM、HOT BLOOD、バンザイなどもディスコ・ヒットを放ったが、デジタルという点ではサマーとGモロダーのサウンドには及ばなかった。 1983年、それまでのユーロ・ディスコに代わって流行し始めた「ハイ・エナジー」と呼ばれるハイテンポなディスコ音楽の流行を受け、英国の音楽雑誌「レコード・ミラー」が「Hi-NRG」チャートを創設。イギリスのレコードプロデューサー、イアン・レヴィンのイーストバウンド・エクスプレスウェイは、ヨーロッパから生まれたHi-NRG音楽のテンポが遅いことを認めて、シングル「You'reaBeat」をリリースした。モダン・トーキング、バッド・ボーイズ・ブルー、タフィー、スパーニャなど、多くのヨーロッパの音楽家がこの新しい認識の下でレコードを発売した。「ユーロビート」は商業的に使用され、ストック・エイトキン・ウォーターマンはデッド・オア・アライヴ、バナナラマ、ジェイソン・ドノヴァン、そしてカイリー・ミノーグらの曲を制作した。1986年から1988年にかけて、サブリナ・サレルノ、スパーニャ、バルティモラなど、1980年代の特定のイタリアのユーロディスコの輸入に使用されたが、当時の英国を拠点とする、ダンスやエレクトロポップグループの総称として米国でも使用されていた。ペット・ショップ・ボーイズも「ヨーロッパ・ビート」、ユーロビートと呼ばれた。1989年までに、ユーロ・ダンスとユーロ・ハウスの出現により、この用語は英国で使用が中止された。イギリスのプロデューサーチームであるストック・エイトキン・ウォーターマンによるプロデュースの下で活動したデッド・オア・アライヴがハイ・エナジーの流行を牽引した。デッド・オア・アライヴは、1984年11月5日に『You Spin Me Round (Like a Record)』をリリースしてイギリスだけでなく、アメリカでもヒットさせた。この楽曲は、後のユーロビートに見られる、高速なBPMとオクターヴ奏法を多用した激しくうねるシンセベースによるベースラインという2つの特徴、をHi-NRGで明確に打ち出した。ハイ・エナジーの主流が108 BPMから120BPMくらいなのに対して、ヨーロッパでの主流は124BPMから138BPMくらいと、BPMが早くなる傾向があった。 この音楽がイギリスで「ユーロビート」と呼ばれるようになったきっかけとして、1985年12月、英国の音楽雑誌「レコード・ミラー」が、「Hi-NRG Chart」の名称を「ユーロビート・チャート」に改名したことがある。この改名は、テンポが速く、ポップな作品が増加したため といわれている。なお、「ユーロビート・チャート」は、1987年、再度「ハイエナジー・チャート」に名称を戻した。 ユーロビートは有名プロデューサーによって大量生産されていた。イギリスではハイ・エナジーの流れを汲み、PWLレーベルを主宰するプロダクションチームのストック・エイトキン・ウォーターマン (Stock Aitken Waterman) のプロデュースによってカイリー・ミノーグ、リック・アストリー、デッド・オア・アライヴ、メル&キムなどのアーティストがヨーロッパに留まらない世界的なヒット曲を出している。また、ドイツやイタリアを中心とするヨーロッパ大陸で人気を博していたイタロ・ディスコの流れもあり、イタリアでSAIFAMレーベルを主宰するマウロ・ファリーナやジュリアーノ・クリヴェレンテのプロデュースによってMax-Him(ドイツ出身のグループで、フロリアン・ファディンジェールが在籍)、Aleph(デイブ・ロジャースが在籍)、Radiorama(マウロ・ファリーナ自身がボーカルを務める)などの多数のアーティスト、ヒット曲を輩出している。 イギリスを筆頭とする欧州のチャートを席巻したユーロビートは、アメリカでも1987年から1989年にかけてMTV USAで放送された、MTV Europe制作の『Braun European Top 20』によって紹介された(ただし、アメリカではユーロビートはそれほど人気が無かったため、ヨーロッパや日本で非常に有名なアーティストでも、アメリカでは全く知られていない場合が多い。ペット・ショップ・ボーイズなどが「ユーロビート」として紹介されるなど、ヨーロッパや日本とは違った受け止められ方をしている)。 しかしながら、ステレオタイプな楽曲が飽きられ、日本以外では1990年代以降、次第にブームが収束していった。ヨーロッパではイギリスで1988年の夏に勃興したセカンド・サマー・オブ・ラブのムーブメントがきっかけとなり、ユーロダンスなどの他のジャンルに移り変わっていった(一方、日本では未だに人気があったため、イタリアのM. FarinaとG. Crivellenteは、Max-HimのF. FadingerとともにユニットF.C.F.を結成し、日本市場向けの曲を供給するようになる)。 このように、日本以外における「ユーロビート」とは、1986年頃から1988年頃にかけてのヨーロッパのダンス音楽を指す名称であった。イギリスではハイ・エナジーの流れをくむ自国のアーティストに対して、サブリナ (Sabrina Salerno)、バルティモラ、Spagna、などと言った、イギリスのこの時期に大ヒットしていたイタロ・ディスコのことを特に「ユーロビート」と呼ぶことがある(なお、イギリスにおいてはサブリナは1987年に『Boys』で、バルティモラは1985年に『Tarzan Boy』で大ヒットを出しただけの一発屋だと思われているが、ヨーロッパ大陸においては他にもヒット曲があり長く活躍したアーティストである)。 1990年代後半ごろより、日本のパラパラの音楽として「ユーロビート」が海外に知られるようになった。
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