上野戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 23:06 UTC 版)
逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦した。転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。 彰義隊の生き残りは厳しく詮議された。首魁の天野は投獄後数ヶ月で死亡した。死因は肺炎とされる。江戸時代から明治時代初期にかけての牢獄は環境が劣悪で、囚人の生存率が低かった。改善されるのは明治の不平等条約改正運動以降のことである。上野で戦死したことにして故郷にも帰れず、明治時代を戸籍なしで送った者もいたという。太平洋戦争終戦時に内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎の叔父は彰義隊に参加した関宿藩卍字隊の上級武士だった為に生死が徹底的に調査され、全国へ指名手配された。原田左之助は上野戦争で戦死したとされるが、家族に迷惑が掛かるのを心配し戦死した事にしたという説もある。獄中の彰義隊士が自由の身になったのは1869年(明治2年)である。新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊の中で最も厳しかったと言われるが、大塚霍之丞のように謹慎後に明治政府へと登用され官吏や重役に就いた者も少なくない。 捕縛後の天野の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり、後ろを見たら誰もいなかったというものがある。彰義隊は江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し、新政府兵士へ集団暴行・殺傷を繰り返した存在としては覚悟が足りず、実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かったことが、一日の戦闘での崩壊となったとする説もある。 江戸では彰義隊の壊滅後、特に戦闘も起こることもなく新政府要人が集団で移転して来た。さらに明治天皇を迎え、元号は明治へ、街の名前も江戸から東京へと変わり、明治新政府の首都としての歴史が始まった(東京奠都)。 なお戦闘後、上野には200名を超える彰義隊士の遺骸が残った。徳川家の菩提寺であった芝増上寺や縁故者等が引き取りを申し出たが、官はこれを容れなかったという。南千住(現:東京都荒川区)の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎がこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬した(上野公園内「彰義隊墓表之来由」)。円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒末松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続いた。 1874年(明治7年)に元彰義隊士の小川椙太(維新後は興郷と名乗る)などの願が許可され、翌1875年(明治8年)に上野で彰義隊の墓が建立された。以降、小川家が墓守を務め、上野では大規模な法会が毎年営まれている。1881年(明治14年)には旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」を碑銘とする墓碑が新たに加わった。彰義隊を「賊軍」とみなす人々からの風当たりによる資金難、墓地の所有権を巡るトラブルなどはあったものの、戊辰戦争における立場を超えて彰義隊士を慰霊しようという環境は次第に好転し、現在に至っている。なお、上野戦争に参加した官軍側諸隊である山国隊の記録では、終戦の3日後から彰義隊の遺体処理を開始したとあり、円通寺は大村からの指示で遺体の受け入れを行ったとの説があるなど、戦死者の処理については記録により差異がある。 彰義隊士の法要は長年、小川の志に協力した日蓮宗が担ってきた。2017年5月15日の百五十回忌は、増上寺や寛永寺など都内5寺が宗派を超えて営んだ。 2018年7月には、「彰義隊子孫の会」が結成された。
※この「上野戦争後」の解説は、「彰義隊」の解説の一部です。
「上野戦争後」を含む「彰義隊」の記事については、「彰義隊」の概要を参照ください。
- 上野戦争後のページへのリンク