上越地方最大の地主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:00 UTC 版)
農地改革前の保阪家は、近世から近代にかけての上越地方では最大級の豪農・大地主の家で、巨大地主の多さから「地主王国」と称された新潟県全体においても有数の地位にあった。1924年(大正13年)時点では644町歩の耕地と1,000人の小作人を抱え、1944年(昭和19年)時点でも627.5町歩の耕地を有していたほか、有価証券の運用による財産も築いていた。 同家の詳細な歴史は、屋敷や菩提寺が幾度かの火災に遭って資料が失われたために不明だが、もとは越後国頸城郡上杉村の高田藩領大光寺集落(後の三和村)にいたのが、江戸時代の元禄年間に初代当主の保阪徳右衛門が舟運の便がある稲田村(後の新道村)に移転し、米穀商を始めて財をなすと、次いで戸野目村に別邸を置いて高利貸や酒屋、飯屋と多角的経営に乗り出し、やがて同地を本拠とするようになったという。以後、保阪家は本家と分家が強固な結束の下に家の存続をはかり、正徳から宝暦年間の記録によれば、同族とみられる稲田の保阪五左衛門が高田藩主の久松松平家および榊原家へ多額の献金を行ったことが確認できる。並行して享保年間より、農業生産の維持・監督が可能な範囲の領域を、すなわち現在の上越市の関川東部および旧三和村域を中心に流質地の集積を堅実に進めていき、1843年(天保14年)時点で、保阪家は既に石高が5,470石、入立米が5,750石を計上するほどの大地主に成長していた。保阪家は土地集積を近世までに終え、近代以後に所有土地面積はほとんど変化しなかったが、明治初期の地租改正を経て地主としての地位はより確固たるものとなり、近世を通じて集積・相続されてきた小作地からの収入が、近代の同家の人々の生活費や株式投資、寄付金、さらに潤治の美術品蒐集活動を支える資金となった。なお、近代地主としての保阪家は、「大小作」と呼ばれた中間地主を各集落に置いて小作地の監督と小作料の徴収を担当させており、1930年(昭和5年)当時は小作争議に備えて高田警察署長を務めたことがある人物を番頭に雇い、警察側と連絡していたという。 文政年間の当主で潤治の曽祖父に当たる6代目の保阪武助は高田藩の御用達と庄屋とを務め、中江用水の余荷金を5万両融通したほどの富豪であり、かつ郷士格も与えられるに至ったほか、1847年5月8日(弘化4年3月24日)に善光寺地震が発生した際は、被災者援助のために関係のあった村々や川浦代官所へ米や現金を拠出している。文化面では谷口藹山に師事し、「蕉窓」と号して山水画をよくした。また、越後を訪れた菅江真澄を歓待したことがあり、国学についても相応の素養を備えていたことが推測される。 潤治の父・第8代当主の貞吉も高田地域の各界で活躍し、1871年(明治4年)の廃藩置県時には、戊辰戦争や凶作で悪化した高田藩の財政再建や士族授産のために820円の私財を投じ、出入り商人の柏屋太須斗(かしわやたすけ)に高田城の外堀へ蓮を植えさせて蓮根栽培事業を始めた。榊原家が東京へ移住する際にも金融面などで援助したことから、代価として大名道具や財宝を多く受け取っている。地租改正時には、直江津の和算家の小林百哺より測量術を学んだ経験をもとに、実施委員として率先して同事業に取り組んだり、第百三十九国立銀行(後の百三十九銀行)の設立時や信越鉄道敷設運動の発足時にはそれぞれ大金を拠出・提供し、村に小学校(現・上越市立戸野目小学校)を設置する際も敷地や校舎などを寄付したりしており、公職関係では柏崎県第八大区長や初代津有村長に就いた。一方では日下部鳴鶴など数多の文人と交際し、「尚済」や「雙岳」の号で俳諧・和歌・詩文を詠み、上越地方の文壇にも名を刻んだ。 なお、上述の通り潤治は表に出ることが少なかったが、三男の隣三郎は1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)まで津有村長を務めた。 保阪家に伝来し、隣三郎の妻・ハルが継承した4,526点の文書群『保阪家文書』(『保阪ハル家文書』)は、現在は上越市公文書センターが所蔵・公開している。同文書群は近世文書群と近現代文書群に大別され、前者は地主小作関係や高田藩関係に加え、財産・家族・災害難民への施行についての文書や帳簿などから、後者は建築・土地・金融および農地改革、そして潤治の蒐集活動や学者らとの交流に関する書類・記録からなる。
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