レーリンクの個別反対意見書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:06 UTC 版)
「極東国際軍事裁判」の記事における「レーリンクの個別反対意見書」の解説
「ベルト・レーリンク#東京裁判における主張」を参照 ベルト・レーリンク判事は個別反対意見書において、侵略戦争が犯罪になったのは1928年の不戦条約でなく、1945年8月のロンドン協定からであるとしながらも、罪刑法定主義や法の不遡及といった原則は裁判官や立法機関といった国家権力の恣意的制裁から個人を保護する為の原則であり当時の国際関係へ適用されるべきではないとし、ともかく自由のために戦った戦勝国は必要ならその原則を無視してもよいとした。戦争防止の為に新しい法的解法を模索すべきであって、「平和に反する罪」が特別に解釈されるべきであるとも主張した。しかしニュルンベルク裁判の量刑と比較し身柄を拘束する事は既存の国際法と一致するが死刑にするのは不当だとして反対した。レーリンクは帝国日本の膨張を「征服戦争であり、不法な拡張であった」と規定し、「新秩序」を構築してアジアを解放しようとしたという被告側の主張を認めなかった。日本の覇権主義は1937年以後の日本政府要人の言動と政策によって確認され、状況に伴って変貌した態度にてアジア解放に対する偽善が露出すると説明した。例えは、1940年に東インド諸島の独立を支持するといった日本が1941年の戦争開始後の段階では日本に頼るよう画策し、やがって占領後には会合・結社までも禁止し、日本の領土として帰属させ、1944年に入って戦勢が不利になるとまた独立を約束しながら対日協力を誘導しようとしたと指摘した。結局、「共栄圏」スローガンは「日本のためのアジア」構築の策略であったという。レーリンクは意見書の中で次のように述べた。 「新秩序」を立てようとした日本の野望が大戦の原因であったという点に疑いの余地がない。(中略)この新秩序が対米交渉を座礁させたのである。弁護側の最終弁論によれば、1941年末の状況は内部的要因に鑑み支那からの撤退は日本の立場から不可能なもので対米交渉の妥結も不可能であって結局このジレンマは戦争に繋がったという。本裁判所に提出された証拠はそれとは違う結論に至らせる。(中略)「新秩序」は中心争点であり対立の核心であった。「新秩序」はきちんといわば世界を支配できるほどの広大で強力な帝国の誕生を意味した。米国の不信は妥当であって、「新秩序」が各種条約を違えながら展開していたという判断に適した。「アジア人のためのアジア」というスローガンが支えた「新秩序」の概念に真実性があったか、それともドイツの国家社会主義のようなもう一つの内在的、理念的侵略の手段であったかを判断することは本裁判に本質的な関わりを持つ。本裁判に提示された証拠によれば「新秩序」概念は事実上は侵略の手段それ以上のものではなかった (Röling 1948: 739-740)。 また、レーリンクは広田弘毅に対して「支那側の要求で、広田は南京虐殺と日本側の不法行為に責任ありとして裁判にかけられ、死刑判決を受けました。私は、広田は南京虐殺に責任ありとは思いません。生じたことを変え得る立場ではなかったのです。ですから、私の反対判決は、彼は無罪放免とすべきという趣旨でした」とのべ、被告人について「彼らはそのほとんどが一流の人物でした。」「海軍軍人、それに東條も確かにとても頭が切れました」とし、さらに「一人として臆病ではありませんよ。本当に立派な人たちでした」と評価したとする人もいる。(ただし、レーリンクの判決にはこのような事は述べられておらず、本文内容については一次史料にあたって確認の要がある。判決では、広田が裁判にかけられた理由について中国側の要求云々とは書かれておらず、またレーリンクがそのようなことの有無を知り得る立場だったと思えない。また、レーリンクは南京虐殺を理由とする広田の死刑には反対しているものの、太平洋戦争中の捕虜虐待死事件等に関し東条の死刑には賛同し、死刑を免れた海軍の嶋田は太平洋での虐殺事件について死刑にすべきだったとしている。) レーリンクは、他界2年前の1983年の5月、東京大学の大沼保昭教授らが組織して東京で開かれた学会に参加し、末年の考え方を伺える発表文を残している。裁判後にも強大国は理念的、経済的理由を挙げながら軍事的介入を繰り返してきたが、過去日本が犯した侵略行為が正当化されるのではないと明言している。
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