東京裁判における主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 18:23 UTC 版)
「ベルト・レーリンク」の記事における「東京裁判における主張」の解説
レーリンクは当初、他の判事と変わらないいわゆる「戦勝国の判事」としての考え方を持っていたが、インドから来たラダ・ビノード・パール判事が少数意見を書くということ影響を受け、自身も少数意見を書くことにしたという報道がある(ただし、レーリンクの意見はパールの意見と全く異なる)。一方で、判決後の報道陣のインタビューに対し、少数意見の発表は裁判所の権威を損なうものとして最初から彼自身は反対だったとし、一部裁判官が発表したことを不満としていた報道もある。1948年7月6日、彼は友人の外交官に手紙を送っている 多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。 とニュルンベルク裁判での判決を東京裁判に強引に当てはめようとする判事たちへの反発が書かれている。 レーリンクは、当時の国際法から見て「平和に対する罪」によって死刑を適用すべきではないと主張した。他にも、 東京裁判の管轄権は太平洋戦争に限定すべきである。 共同謀議の認定方法には異議がある。 「通例の戦争犯罪」では、嶋田繁太郎、岡敬純、佐藤賢了も死刑が相当である。 広田弘毅は「通例の戦争犯罪」では無罪であり、「平和に対する罪」では有罪だが死刑にはすべきでない。 として、広田以外にも木戸幸一、重光葵、東郷茂徳、軍人被告では畑俊六を無罪としている。特に畑の無罪に関しては、政府の政策を実行しただけの軍人を罰することは出来ない事を理由として挙げている(ただし、後に日本に来た時のインタビューに対しては、日本軍が満州で行っていた人体実験などを知り、自身の畑の無罪論には疑問を抱くようになったと答えている)。他には、無罪判決を下した重光に関しては、彼の人柄を評価したうえで、判事団の最後の決定会議において「この人は数年後には、日本の外務大臣になるだろう」と述べている。 また、晩年に認めた著書においては、 我々は日本にいる間、東京や横浜をはじめとする都市に対する爆撃によって、市民を大量に焼殺したことが、念頭から離れなかった。我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしている筈だったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、それは酷いものだった。勿論、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。東條が「東京裁判は勝者による復警劇だ」と言ったのは、まさに正しかった。 と述懐している。 加えて、日本の行為を“侵略戦争”と断じた事に触れたうえで、パール判事と同様に 次の戦争では、勝者が戦争を終結した時に新しい法律をつくって、敗者がそれを破ったといって、いくらでも罰することが出来る、悪しき前例をつくった。 と、事後法で罪を裁く事は出来ない事を前提として、 国際裁判所が、正義に基づいて処罰を加える事を求められているにも関わらず、自ら正義の法理を適用しているか否かを審査する機能や義務さえ与えられないで、単に戦勝国の最高司令官の定めた法規を適用しなければならない。かようなことを本裁判所が認めるとすれば、それは国際法の為に、このうえなく有害な事をした事になるであろう。 とも述べ、裁判そのものを強く批判している。 また、同じく晩年に応えたインタビューの中では、日本とドイツが戦争を開始した理由の違いについて触れ、 手続き上にも問題がいくつかあり、不公平な点がありました。一例をあげると、中国における共産主義の脅威があった事を立証する機会を与えてほしい、との求めが被告側から出されました。そうした脅威があった為に、日本は行動を起こしたと立証しようとしたのです。ドイツの場合は、ヨーロッパ大陸での大国になろうとして戦争に突入していったのですが、日本は、これとは違います。結局、裁判では、立証の機会は認められませんでしたが、アンフェアだったと思っています。 と述べている。
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