東京裁判での言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:24 UTC 版)
ベン・ブルース・ブレイクニー(東郷担当の弁護人) 「本法廷において『最後通牒』ということに付多くが語られた。ハル・ノートが『最後通牒』と認められるべきや否やは全く関係ない問題であつて、問題は覚書の効果である。…ハル・ノートは歴史となつた。されば之を現代史家の語に委ねよう。『本次戦争に就いて言えば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた覚書を受け取ればモナコやルクセンブルクでも米国に対し武器をとつて立つたであろう』」。 ラダ・ビノード・パール判事 ブレイクニーが引用した現代史家の一節を、パールも個別意見書に引用している。 また、パールは6月21日付米国案とハル・ノートを比較した上で、これまでの交渉で一度も言及されたことのない条項があることや従来の米国の主張を超えるような要求をしていることを指摘し、「日本の内閣は、たとい『自由主義的』な内閣であろうと、また『反動的』なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒すことなしには、その覚書の規定するところを交渉妥結の基礎として受諾することはできなかったであろう」「ルーズヴェルト大統領とハル国務長官が東京の日本政府はこの覚書の条項を受諾するだろうとか、またこの文書を日本に交付することが、戦争の序幕になることはあるまいと1941年11月26日の遅きに至って考えるほど、日本の事情にうとかったとは、とうてい考えられないことである」という米国人歴史家の一節も引用している。 信夫淳平 内外法政研究会(東京裁判の弁護対策として発足した民間団体)の研究資料において、次のような言及がある。「米国の当時要求しましたところの支那及仏印からの撤兵、重慶以外の支那政権の否認、三国同盟よりの離脱、…、いづれにしても少くともこの三個条は、我が政府としては種々の行懸り上、受諾するに困難を感じたことは十分察せられる。然しながら困難を感じたには違ひないが、絶対に不可能といふものではなかった。これをアクセプトすることは外交政策上面白くないといふまでヾ、なし能はぬといふものではない。即ち得策、不得策の問題で、能否の問題ではなかった。避くるに道がないのではなく、また考ふるに遑がないわけでもなかった。さうして一たびこれを受諾したならば急迫事態は瞬時を出でずして消散して了ふのであるから、自衛の必要を呼起さしむるに及ばざる自由裁量の余地は尚ほ残されてあったのである。殊に右の要求を申入れ来りたる米国政府の十一月廿六日の対日提案は、米国の最後通牒と我が政府にては内外に宣明したが、よく調べて見ると、該提案の冒頭にはテンタチーヴ[tentative(暫定)]と記してある。即ち一の試案である。試案であるから、該提案は最後通牒ではなくして、中間通牒である。故に之に対し折衝を継続せんとの意思が我方にありさへすれば、為し得る余地は尚ほあった筈である」「何もかも辞を自衛に藉かりて自国の行動を弁護する自衛濫用の従来の慣例を踏襲するならば格別、自衛の語を厳正に解釈する限りは、国家の自衛権にて大東亜戦争を弁護することは無理と私は思ひます」
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