東京裁判での田中文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 14:54 UTC 版)
日本の敗戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)では、侵略戦争の共同謀議の証拠とすべく国際検察局(IPS)が開廷の直前まで田中上奏文を探した。しかし、1946年5月5日ニューヨーク・タイムズに、田中義一・元内閣書記官長の鳩山一郎が偽文書であることを主張したインタビューが掲載され、更に、元国務省極東局長のJ・バランタインが田中上奏文は存在しないことを説明したので、IPSはこの上奏文を探し出すことをあきらめた。 東京裁判当時・中華民国の国防次長であった秦徳純は、1946年7月24日、日中戦争の開始に関する証言への反対尋問の中で、田中上奏文の真実性について明言はしなかったが、実在しなくとも現実に行われた日本の行動により表現されていると主張した。25日には、文書の真実性に何か確信があるかとの裁判長の問に対し「真実のものとも、否ともいえぬ。だが日本が実際に行った事実は田中が預言者であったかの如くさえ思われる。」と答えた。また秦は、林逸郎弁護人の「田中覚書の中には福島安正大将の令嬢が金枝玉葉の身を以て蒙古王の顧問になったとか…。到底信用難きことが書かれて居りますが気が付かれませぬでしたか」との問いに、「あなたが非常にお詳しいことに対して敬意を表します、ただし私はその内容に付いて何ら注意したことがございませぬ」と答えた。 日本側の証人であった外交官の森島守人は弁護人の質問に「(田中上奏文について)聞いたことがある。またそれが偽物であることも承知している」と答えた。また森島はさらに上奏文の素性と経路に関して「浪人あたりがでっち上げて売り込んだか、中国人の手で創作したか、いずれかであろうと想像される」と述べるつもりであったが検事側からの抗議で発言を打ち切られた。 最終的に田中上奏文は東京裁判では証拠として採用されなかった。
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