ラーコーツィ蜂起とは? わかりやすく解説

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ラーコーツィ蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:39 UTC 版)

ラーコーツィ・フェレンツ2世」の記事における「ラーコーツィ蜂起」の解説

詳細は「ラーコーツィの独立戦争」を参照 レオポルト1世同族スペイン・ハプスブルク家断絶危機見舞われる一方でフランス王ルイ14世オーストリア・ハプスブルク家対抗すべく同盟者探していた。オーストリアフランス覇権対抗してイングランド・ネーデルラント連邦共和国同盟を結びドイツ諸侯大部分連携していたが、フランス同盟者少なかったからである。 こうしたなか、フランスはラーコーツィと協定を結び、彼がハンガリー独立大義のために戦い始め暁には支援を行うと約束した。しかし、オーストリア密偵両者交わした通信文を押さえると皇帝注進、この協定のためラーコーツィは1700年4月18日逮捕されヴィーナー・ノイシュタット要塞収監された。反逆罪での逮捕場合、かつて同じ容疑逮捕され母方の祖父ペータル・ズリンスキ(ヴェッシェレーニ陰謀首謀者)のように、ラーコーツィにも死刑宣告されることは最初から明らかだった身重の妻アマーリエ要塞司令官の手引きでラーコーツィは脱獄ポーランドへの逃亡成功した。この地でラーコーツィはベルチェーニと再会し両者フランス宮廷との協定再発効させた。 まもなくスペイン継承戦争勃発しハンガリー王国内に駐留していたオーストリア軍大部分同国離れた。この状況を有利とみて、かつてテケリ率いていたクルツ反乱軍がムンカーチで新たな蜂起再開し、ラーコーツィはその指導者に推された。ラーコーツィは民族解放戦争身を投じることを決意し申し出承諾した1703年6月15日ラーコーツィ家の元農奴エセ・タマーシュ(hu)に率いられ3000からなる武装した一団ポーランドのラヴォチュネでラーコーツィの軍団加わった。ベルチェーニもフランス援助金携え600人のポーランド人傭兵引き連れて合流したハンガリー貴族大半は、ラーコーツィの蜂起農民蜂起他ならない考えて支持しなかった。ラーコーツィの蜂起参加呼びかけ無駄に終わると思われたが、彼はハイドゥク(自由農民戦士)達を自軍引き込むことに成功した反乱軍1703年9月下旬までにはドナウ川東側北側に至るハンガリー王国大部分支配下においた上、ドゥナーントゥール(現在のハンガリー北西部)の征服乗り出したオーストリアは東だけでなくフランス同盟者バイエルン選帝侯マクシミリアン2世挙兵により西も危険になり、挟み撃ち危険性生じた。 だが、当初苦境立っていたオーストリア軍は、イングランドと共に1704年8月13日ブレンハイムの戦いフランスバイエルン連合軍勝利した。これによってオーストリアスペイン継承戦争優勢に立った上、フランスバイエルン連合軍とラーコーツィ軍の連携阻むことにも成功、ラーコーツィは軍事的に経済的に厳しい状況追い込まれた。フランスからの支援はだんだん滞るうになる一方で、既に征服している地域送り込むため、さらなる軍勢必要になった。加えて、この時点配下にあった軍勢武器食糧提供するだけの資力が、ラーコーツィには無かった。この問題解決するためラーコーツィは新しく主体とする貨幣発行したが、従来ハンガリー人々使用していた銀貨ほど広く普及せず、失敗終わった。それでもラーコーツィはしばらく軍事的優勢を保つことが出来たが、1706年以後占領した地域から退き始めた1705年9月セーチェーニ開かれたハンガリー議会(6人の司教36人の上貴族25郡から集まった1000人の下級貴族の代表が集まった)で、ラーコーツィは24人の元老院議員立ち会いのもと、ハンガリー王国全身分の統治首長(fejedelem)」に選ばれた。ラーコーツィと元老院和平交渉を含む外交問題への対応に関して連帯責任を負うことも取り決めされた。 1705年10月27日イングランドオランダ勧告で、クルツ反乱軍指導者皇帝ヨーゼフ1世和平交渉始めた両者とも戦況いかんによって態度次々変えた交渉の中で障害となったのがトランシルヴァニア主権をめぐる問題だった。両者とも同国主権手放す気が無かったのである。ラーコーツィの提案した条約フランス側受け入れず先延ばしにしていたため、ラーコーツィは独立宣言さえ出せば諸国家は自分と交渉に応じてくれるはずだと確信するようになった。ラーコーツィの妻アマーリエ(夫とはもう5年会っておらず、2人の息子ヨージェフhu)とジェルジhu)を伴ってやって来た)と姉ユリアナオーストリア側から和平使節として送られてきたが、ラーコーツィは皇帝便宜図ろうとする彼女達言い分聞こうとしなかった。 1707年大北方戦争中のポーランドでは、ラーコーツィをポーランド国王候補推薦する動きがあった。ラーコーツィはポーランド政界実力者エルジュビェタ・シェニャフスカ(アダム・ミコワイ・シェニャフスキの妻)に支持されたが、当時スウェーデンによってスタニスワフ・レシチニスキ国王の座に就けられていたため、王位獲得することは無かった。 ベルチャーニの支持受けたラーコーツィの勧告により、新たな議会がボルショド郡のオーノドで開催され議会1707年6月13日ハプスブルク家ハンガリー王位から排除することを宣言した。しかしこの排除立法も、銅貨発行によるインフレ回避どちらも成功もたらすことは無かったルイ14世ハンガリー君主名乗るラーコーツィとの条約締結拒みハンガリー人たちを孤立無援の状態で見捨てたハンガリー人にはロシアとの同盟という選択肢しかなかったが、これも実現できるものではなかった。 1708年8月3日トレンチーン戦いにおいて、ラーコーツィは乗っていた馬がよろけたため地面落ち意識失ったクルツ反乱軍は彼が死んだ思い戦場から逃げ去った。この無様な敗退蜂起終焉であり、反乱軍大勢指導者達皇帝への忠誠表明し皇帝慈悲乞うた。ラーコーツィの軍勢はムンカーチとサボルチュ郡周辺地域まで撤退したハプスブルク王家忠誠誓え恩赦受けられるという、皇帝全権大使パールフィ・ヤーノシュ(hu)の言葉信用できないラーコーツィは、1711年2月21日ポーランド亡命した

※この「ラーコーツィ蜂起」の解説は、「ラーコーツィ・フェレンツ2世」の解説の一部です。
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