ムツェンスクでの戦闘
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「第1親衛戦車旅団」の記事における「ムツェンスクでの戦闘」の解説
1941年10月2日、カトゥコフ大佐率いる第4戦車旅団はオリョール=ブリャンスク作戦(ロシア語版)に従いオリョール州ムツェンスクへ向かった。10月4日から10月11日にかけて、第1親衛狙撃兵軍団とともに、ハインツ・グデーリアン上級大将率いるドイツ陸軍第2装甲軍と戦闘状態に至った。 カトゥコフはオリョールに関する詳しい情報を得ていなかったため、初めに偵察部隊を2隊派遣している。そのうちの一隊、グセフ大尉が指揮していた機械化歩兵部隊は13両の戦車を供にしていたが、偵察中オリョール郊外で2両のT-34と2両のKV-1を失った。もう一方はブルダ上級中尉率いる自動車化歩兵部隊で8両の戦車を伴っており、南東方向から待ち伏せによる接近を図った。10月7日、カトゥコフもムツェンスクへ入ったが、すでに街にはドイツ兵が集結していた。 第4戦車旅団が第2装甲軍と初めて戦火を交えたのは10月5日のことである。イヴァノフスコエに移動したドイツ軍の先遣隊は、第4戦車旅団の自動車化狙撃大隊、NKVDの第34国境警備連隊と第201空挺旅団(ロシア語版)を相手に交戦し、カズナチェエヴォへとさらに進軍した。しかし第2装甲軍はカズナチェエヴォで第4戦車旅団の反撃を受け、オプトゥハ川(ロシア語版)までの後退を余儀なくされている。ドイツ側が残した記録には、このときの反撃について以下のように記されている。 その時、一部重戦車を含む10から15両の戦車が現れ、邪魔をしてきた…。攻撃は止んだ。ボゴスロヴォ付近では、右にも後ろにも8から10両の戦車がいた。指揮官のランゲルマンは攻撃の中止を決断した。 旅団はその後も、カズナチェエヴォだけではなく、周辺のキェファノホやナリシュキノ(ロシア語版)、ピェルヴィー・ヴォイン(ロシア語版)などの村でも戦車の待ち伏せを用いて戦闘を繰り広げた。 ウィキソースに1941年10月6日付に下された第11戦車旅団の軍事作戦(一部抜粋)の原文があります。 10月6日、ピェルヴィー・ヴォインに配置されていた旅団の歩兵部隊がドイツ軍の攻撃を受けた。ドイツ軍は、はじめに対戦車砲を制圧すると、戦車で塹壕の突破を図った。カトゥコフは部隊救援のため、ラヴリネンコ中尉の指揮の下、即座に4両のT-34-76を派遣した。さらに、第4戦車旅団の右翼側を補うために第11戦車旅団(ロシア語版)から派遣されていた11両のT-34は、第4戦車旅団の他の戦車とともに17時30分よりドイツ軍の側面から反撃を開始し、陣地の回復に貢献している。 10月7日、戦車部隊はイヴァノヴォ、ゴロペロヴォ、シェイノ付近まで一旦撤退した。10月9日、第4戦車旅団は再び攻勢に転じ、オリョールの高速道路(ロシア語版)に沿ってムツェンスクからゴロヴリョヴォへ進軍していたハインリッヒ・エーバーバッハ大佐率いるドイツ陸軍の戦闘団を、ヴォインカ川(ロシア語版)付近まで後退させている。ドイツ側が残した記録には、このときのことについて以下のように記されている。 道中、敵はさらに数両の戦車や補助車両を攻撃してきた。激しい砲撃に阻まれながらも、部隊はヴォインカの東の高台と橋まで整然と撤退することに成功した。戦車の主力部隊もヴォインカ付近の旧陣地へと撤退した。再び敵の攻撃が行われている。やがて陽が落ち、雪が降り出した。 この戦闘の際、第2戦車大隊の司令官であったラフトプーロ大尉はイルコヴォ(ロシア語版)村付近で重傷を負ったが、彼は意識を失うまで戦線を退くことはなかった。 翌日、エーバーバッハの部隊は他の部隊と併合した。この部隊が有していた30両の戦車は、ソ連軍陣地を迂回して吹雪の中を秘密裏に10キロ進み、南東のズシャ川(ロシア語版)に架かる橋を渡って、12時頃再びムツェンスクへ到着した。同時にドイツ軍主力部隊もムツェンスクへ進軍し、第4戦車旅団を包囲した。第4戦車旅団と第11戦車旅団は、幾度となくズシャ川方面の脱出路を開放しようと試みたが、失敗に終わっている。10月11日の夜、旅団は密かに包囲網を掻い潜ることに成功し、ムツェンスク北部のズシャ川に架かる鉄道橋を通って第26軍(ロシア語版)と合流した。合流後は10月16日まで陸軍予備部隊に留まった。 第1親衛狙撃兵軍団や第4戦車旅団、第11戦車旅団の攻撃によりドイツ軍は進軍を7日間足止めされ、多くの人的、物的被害を生じさせた。ソ連側の記録によると、第4戦車旅団との交戦でドイツ軍は戦車133両、対戦車砲49門、迫撃砲6門、偵察機8機、弾薬運搬車15台を失い、最大で1個歩兵連隊を壊滅させた。一方、第4戦車旅団自身は戦車23両、車両24台を失い、555人の死傷者が出たもののドイツ側と比べると軽い被害で済んでいる。 ランゲルマン率いる第2装甲軍第4装甲師団に対する攻撃には、各旅団の戦車部隊以外にも爆撃機や戦闘機などによる航空攻撃や、カチューシャなどの多連装ロケット砲による攻撃が積極的に取り入れられた。その結果、第4装甲師団は著しく弱体化し、ドイツ側の記録では、10月4日時点で戦車を59両保有していたが、10月16日には38両にまで消耗している。中でも、第4装甲師団第35戦車連隊は10月3日から10月13日までの10日間で16両(II号戦車2両、III号戦車8両、IV号戦車6両)を失い、第79装甲偵察大隊は車両1台を喪失している。グデーリアンは自身の回顧録でこの時のことを以下のように振り返っている。 ムツェンスクの南部で第4装甲師団はソ連軍の攻撃を受け、苦境に立たされた。ソ連のT-34戦車の優位性が初めて鋭い形で示された。師団は大きな損害を被り、トゥーラに対する急襲計画は当面の延期を余儀なくされた。 …特に残念だったのは、ソ連戦車の行動と、何よりもその新しい戦術についての報告だった。… ソ連の歩兵は正面から進撃し、戦車は我々の側面に大量に攻撃を仕掛けてきた。彼らは既に何かを学んでいた。 一連の戦闘によるドイツ側の被害記録と旅団側の記録に顕著な開きがみられるのは、第4戦車旅団は戦果を旅団自体の部隊に加えて、付属部隊である第34国境警備連隊や第201空挺旅団などにも尋ね、それらからの報告を中心に被害状況を取り纏めたためである。一回の戦闘で同一の敵に対して与えた損害が、様々な部隊から複数回報告として上がってきたため、重複して記録されることとなった。 1941年10月22日、第4装甲師団長のランゲルマンは報告書の中で、「東部戦線に於いて初めて、ロシアの26トンと52トンの戦車が我が国のIII号戦車やIV号戦車より絶対的に優れていることが証明された」と記している。さらに、喫緊の課題として「即座にロシアの26トン戦車を研究すること」とあり、ソ連の戦車よりも技術的に勝る新たな兵器を製造するため多くの対策がなされていたことがうかがい知れる。 1941年11月、ソ連の新型戦車を研究するため、ドイツ本国より特別チームが戦線へ派遣された。第2装甲軍の下に到着したチームには、フェルディナント・ポルシェを始めとして、MANやヘンシェルなどの研究員が随行していた。このチームは特に、重戦車KV-1、KV-2や中戦車T-34を詳細に研究したとされる。この時の調査研究によって得られた情報が、後にV号戦車パンターの開発に繋がった。 T-34の乗員。中央に映るのはグリゴーリー・ルゴヴォイ(ロシア語版)中尉(1941年10月) メモリアルとして残されたT-34(2001年10月)
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