ムツェンスクでの戦闘とは? わかりやすく解説

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ムツェンスクでの戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:40 UTC 版)

第1親衛戦車旅団」の記事における「ムツェンスクでの戦闘」の解説

1941年10月2日、カトゥコフ大佐率いる第4戦車旅団オリョールブリャンスク作戦ロシア語版)に従いオリョール州ムツェンスク向かった10月4日から10月11日にかけて、第1親衛狙撃兵軍団とともにハインツ・グデーリアン上級大将率いドイツ陸軍第2装甲軍戦闘状態に至った。 カトゥコフはオリョールに関する詳しい情報得ていなかったため、初めに偵察部隊を2隊派遣している。そのうち一隊グセフ大尉指揮していた機械化歩兵部隊13両の戦車供にしていたが、偵察オリョール郊外で2両のT-34と2両のKV-1失った。もう一方ブルダ上級中尉率い自動車化歩兵部隊で8両の戦車伴っており、南東方向から待ち伏せによる接近図った10月7日、カトゥコフもムツェンスク入ったが、すでに街にはドイツ兵が集結していた。 第4戦車旅団第2装甲軍初め戦火交えたのは10月5日のことである。イヴァノフスコエに移動したドイツ軍先遣隊は、第4戦車旅団自動車化狙撃大隊NKVDの第34国境警備連隊と第201空旅団ロシア語版)を相手交戦し、カズナチェエヴォへとさらに進軍した。しかし第2装甲軍はカズナチェエヴォで第4戦車旅団反撃を受け、オプトゥハ川(ロシア語版)までの後退余儀なくされている。ドイツ側残した記録には、このときの反撃について以下のように記されている。 その時一部重戦車を含む10から15両の戦車現れ、邪魔をしてきた…。攻撃止んだ。ボゴスロヴォ付近では、右にも後ろにも8から10両の戦車がいた。指揮官のランゲルマンは攻撃中止決断した旅団その後も、カズナチェエヴォだけではなく周辺のキェファノホやナリシュキノ(ロシア語版)、ピェルヴィー・ヴォイン(ロシア語版)などのでも戦車待ち伏せ用いて戦闘繰り広げたウィキソース1941年10月6日付に下された第11戦旅団軍事作戦一部抜粋)の原文あります10月6日、ピェルヴィー・ヴォインに配置されていた旅団歩兵部隊ドイツ軍の攻撃受けたドイツ軍は、はじめに対戦車砲制圧すると、戦車塹壕突破図った。カトゥコフは部隊救援のため、ラヴリネンコ中尉指揮の下、即座に4両のT-34-76派遣した。さらに、第4戦車旅団右翼側を補うために第11戦旅団ロシア語版)から派遣されていた11両のT-34は、第4戦車旅団の他の戦車とともに17時30分よりドイツ軍側面から反撃開始し陣地回復貢献している。 10月7日戦車部隊イヴァノヴォ、ゴロペロヴォ、シェイノ付近まで一旦撤退した10月9日、第4戦車旅団は再び攻勢転じオリョール高速道路ロシア語版)に沿ってムツェンスクからゴロヴリョヴォへ進軍していたハインリッヒ・エーバーバッハ大佐率いドイツ陸軍戦闘団を、ヴォインカ川(ロシア語版付近まで後退させている。ドイツ側残した記録には、このときのことについて以下のように記されている。 道中、敵はさらに数両の戦車補助車両攻撃してきた。激し砲撃阻まれながらも、部隊はヴォインカの東の高台まで整然と撤退することに成功した戦車主力部隊もヴォインカ付近の旧陣地へと撤退した。再び敵の攻撃が行われている。やがて陽が落ち降り出した。 この戦闘の際、第2戦車大隊司令官であったラフトプーロ大尉はイルコヴォ(ロシア語版付近重傷負ったが、彼は意識を失うまで戦線を退くことはなかった。 翌日エーバーバッハ部隊は他の部隊併合した。この部隊有していた30両の戦車は、ソ連軍陣地迂回して吹雪の中を秘密裏10キロ進み南東のズシャ川(ロシア語版)に架かる渡って12時頃再びムツェンスク到着した同時にドイツ軍主力部隊ムツェンスク進軍し、第4戦車旅団包囲した。第4戦車旅団第11戦旅団は、幾度となくズシャ川方面脱出路を開放しよう試みたが、失敗終わっている。10月11日の夜、旅団密かに包囲網掻い潜ることに成功しムツェンスク北部のズシャ川に架かる鉄道橋通って26軍(ロシア語版)と合流した合流後10月16日まで陸軍予備部隊に留まった。 第1親衛狙撃兵軍団や第4戦車旅団第11戦旅団攻撃によりドイツ軍進軍7日間足止めされ、多く人的物的被害生じさせた。ソ連側記録によると、第4戦車旅団との交戦ドイツ軍戦車133両、対戦車砲49門、迫撃砲6門、偵察機8機、弾薬運搬車15台を失い最大で1個歩兵連隊壊滅させた。一方、第4戦車旅団自身戦車23両、車両24台を失い555人の死傷者出たもののドイツ側比べると軽い被害済んでいる。 ランゲルマン率い第2装甲軍第4装甲師団対す攻撃には、各旅団戦車部隊以外にも爆撃機戦闘機などによる航空攻撃や、カチューシャなどの多連装ロケット砲による攻撃積極的に取り入れられた。その結果、第4装甲師団著しく弱体化しドイツ側記録では、10月4日時点戦車59保有していたが、10月16日には38両にまで消耗している。中でも、第4装甲師団35戦車連隊10月3日から10月13日までの10日間で16両(II号戦車2両、III号戦車8両、IV号戦車6両)を失い、第79装甲偵察大隊車両1台を喪失している。グデーリアンは自身回顧録でこの時のことを以下のように振り返っている。 ムツェンスク南部で第4装甲師団ソ連軍攻撃を受け、苦境に立たされた。ソ連T-34戦車優位性初めて鋭い形で示された。師団大きな損害被りトゥーラ対す急襲計画当面延期余儀なくされた。 …特に残念だったのは、ソ連戦車行動と、何よりもその新し戦術についての報告だった。… ソ連歩兵正面から進撃し戦車は我々の側面大量に攻撃仕掛けてきた。彼らは既に何かを学んでいた。 一連の戦闘によるドイツ側被害記録旅団側の記録顕著な開きみられるのは、第4戦車旅団戦果旅団自体部隊加えて付属部隊である第34国境警備連隊や第201空旅団などにも尋ね、それらからの報告中心に被害状況取り纏めたためである。一回戦闘同一の敵に対して与えた損害が、様々な部隊から複数回報告として上がってきたため、重複して記録されることとなった1941年10月22日、第4装甲師団長のランゲルマンは報告書の中で、「東部戦線に於いて初めて、ロシア26トン52トン戦車我が国III号戦車IV号戦車より絶対的に優れていることが証明された」と記している。さらに、喫緊の課題として「即座にロシア26トン戦車研究すること」とあり、ソ連戦車よりも技術的に勝る新たな兵器製造するため多く対策なされていたことがうかがい知れる1941年11月ソ連新型戦車研究するため、ドイツ本国より特別チーム戦線派遣された。第2装甲軍の下に到着したチームには、フェルディナント・ポルシェ始めとして、MANヘンシェルなどの研究員随行していた。このチームは特に、重戦車KV-1KV-2中戦車T-34詳細に研究したとされる。この時の調査研究によって得られ情報が、後にV号戦車パンター開発繋がったT-34乗員中央に映るのはグリゴーリー・ルゴヴォイ(ロシア語版中尉1941年10月メモリアルとして残されT-342001年10月

※この「ムツェンスクでの戦闘」の解説は、「第1親衛戦車旅団」の解説の一部です。
「ムツェンスクでの戦闘」を含む「第1親衛戦車旅団」の記事については、「第1親衛戦車旅団」の概要を参照ください。

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